29 セミ・プロ-2010.03.01-

 セミ・プロとは、半玄人のことをいう。

 ただ、将棋に関していえば、セミ・プロとは、「困り者」というひびきが強い。将棋界では、それを職業とするのがプロであり、将棋を愉しむ人をアマチュアと呼ぶ。プロとアマしか存在理由がないのだから、その中間のセミ・プロは余り者ということとなろう。

 将棋の場合、セミ・プロといえば、賭将棋を渡世とする真剣師のことをさすのが通例となっている。アマチュアよりは強く、それでいて、プロに及ばないセミ・プロは、その腕力に物をいわせて、賭将棋渡世をするより仕方がなかった。

 そういうセミ・プロが、全国を歩いて賭場荒らしならぬ将棋会荒らしをする。名のあるセミ・プロはいまでは全国で数人くらいに減っているという。

 賭将棋は、将棋のルールは守るが、試合方法は当事者が勝手に決めてやるので、所によっては、ずいぶんと毛色の変ったものがある。

 呉地方では・・・・モク将棋という。対戦者Aは、形勢がよくなったとき、「モク!」と声を掛ける。対戦者Bが、そこで、「負けた」といえば、将棋はおしまいとなる。

 Bは、拒否する権利がある。すると、賭金は倍にはね上がる。むろん、Bも、「モク!」と声を掛ける権利はあるが、AもBも、権利を行使できるのは一回きりである。

 これは、上手に分のある勝負だといわれる。相手の玉が詰んでいるのに、わざと詰まさないで指しつづける。Bは、Aが失策ったと錯覚して、「モク!」と声を発する。Aは拒否して、ルールによって賭金が倍になったところで、一気にBの玉を詰めてしまう。

 真剣師は、小さく負けて大きく勝つ。ギャンブルにはつきものの手練手管である。

 静岡では・・・・六枚落(俗にいう金銀将棋)しか指さぬ真剣師がいた。その代り、賭金は三十そう(三十倍)を振る。常識的に見れば、六枚を落してもらった下手が勝つ手合割であるが、賭金の大きさに目がくらんでか、下手が失策ることが多かったという。

 仙台では・・・・逆に、強い相手に対して、弱いほうが香を落す。その代償として、賭金三倍を要求する。理屈通りにゆかない真剣勝負のドラマを見越した、大きな賭である。

 全国共通は・・・・旦那つきの真剣。勝てば賭金は旦那と半分わけする代りに、負けたときは旦那が全額を支払う。保険づきの真剣である。

 プロも、明治の人はだれでも真剣を指した。昭和十四年、十三世名人関根金次郎に入門した五十嵐豊一八段は、スランプに悩んでいた。すると、関根は、

 「お前、賭将棋をやるか?」

 「いえ、致しません」

 「やれ。やらんと強うならん」

 ただし、と関根は釘をさした。「素人とやってはいかん」

 修行のために、真剣をやれという。プロ同士の真剣は、賭とはいっても、稽古料を支払うようなものである。

 いまの若者は、もっとドライに割切っている。「稽古料を払うのはお互いさま」と、無料で交互に稽古台を勤めるらしい。時代の流れというものであろう。

30 大道詰将棋-2010.04.01-

 戦後は東京・浅草で露天の将棋会所が設けられて賑った。勤め帰りのサラリーマンや労働者が立寄り、相手をみつけて緑台将棋を愉しんでいた。

 雨の日は中止になる。途中で雨が降り出せば、対局者は、さっと近くの店の軒先に飛びこんで、気長に雨足が遠ざかるのを待つこととした。

 その後、品川あたりで、夜間専用の緑台将棋会場があったが、経済の高度成長の波の高まりとともに、それらは姿をかき消した。いまでは、「経済大国」にふさわしく、国鉄の主要駅近くのビルに将棋がクラブができて、大そう繁昌している。

 もう一つ、姿を消して寂しくなったのは、大道将棋である。戦後は、道路交通法の制約を受けて、どこにでも店を張ることができなくなった。それも一つの理由であっても、大道将棋屋がインチキまがいの商売をして、庶民から見放されたのが一番の原因であろう。

 大道将棋の歴史は意外と新しい。大正の末期に、忽然として街頭に進出した。それも、初めは棋書を売るのが目的であった。

 関東段震災で東京全市は潰滅した。その破壊された街々に復興の槌音が鳴りひびき始めるころ、浅草観音堂の横手や、神楽坂毘沙門天の縁日に、将棋の講釈師が姿を見せ始めた。玉の井在住の野田圭甫という老人は、将棋の講釈をしながら、自分で創案した「可章馬」を講じ、パンフレットを一冊二十銭で売り捌いた。「可章馬」と正式の名で書くより、「鬼殺し」といったほうが、オールド・ファンには判りいいだろう。

 仲間に、堀内宗善という人がいた。試みに詰将棋を出題して見れば、物珍しさも手伝って黒山の人集りとなった。そこで、将棋の講釈師は廃業して、詰将棋で人を集めることに専念するようになった。

 日本人の通例で、真似をする人が多く、大正から昭和前期にかけて、どんな田舎街でも大道将棋屋を見かけるようになった。そのうち、ひとひねりも、ふたひねりもした複雑な詰将棋を作図する人が現われて、これを普通作品と区別して、「大道詰将棋」と呼ぶこととなった。

 のぞいてみれば、すぐにも詰みそうである。少年のころ、私も紀州の田舎で手を出して大火傷をしたことがある。

 逆手をとって、大道詰将棋を解いて廻り、賞金をためて上阪の資とした人もいる。広島生れのその少年は、稼いだ賞金で着物を作り、汽車の切符を買って、大阪の木見金治郎八段(贈九段)の門をくぐった。もう、お判りであろう。その人の名は、升田幸三九段である。

 では、大道詰将棋はインチキかというと、そうではない。詰め上りに余り駒があってもよろしい—その点が違うだけで、普通作品とルールは同じだ。易しい作図と見せかけて、迷路に誘いこむ複雑さを裏に仕掛けてある。作図そのものはインチキではないが、商売のやり方にインチキが多かった。

 そのせいか、昔から大道詰将棋の作者は、名前を明かすことを潔しとしない。とことん「影の人」に徹して作図をつづける。哀しいほどに戯作者の運命をわが身に刻するのは、どうしたわけなのであろうか。

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