31 質屋の看板-2010.05.01-

 元禄時代、徳川幕府は質屋の規約を定めた。利子は、いまより高く、二割から五割ぐらいである。その代り、流質期間は長くて、八ヶ月から十二ヶ月ぐらいとなっている。盗品などは質草に取ってはいけないことも、ちゃんと規約にうたっている。

 看板は、将棋の駒形に作ってある。「金になる。金銀にかへるなどという意ならん歟」と、柳亭種彦は、『用捨箱』のなかに書き、看板図を写し取っている。営業許可証として駒形の看板を与えた幕府の役人も、なかなかに粋なことをしたものである。

 質屋の主も、その看板を店先につるすに際しては、看板の下部に反古をたばねて結びつけた。「その板のうへに質札の反古を、紙の塵はたきの如く束たる物なり」と書く。質屋に飛びこむ客人に「かしらうたせじの用心」ということであった。

 近ごろは、商人道も地に堕ちたと嘆かせるが、とすれば、江戸時代の商人の心くばりのほどが懐しく思い出される。

 その反古も、「質札の反古」というように、用済みの質札を用いたものも面白い。縁起をかついで、たぶん、質流れとなった質札などは避けたことであろう。

 看板は、だいたい、縦七寸六分、横六寸六分、厚さ一寸で、表に「質」と漢字で書き、焼印三つを捺し、裏は「志ちや」と平仮名で書き、町名と屋号を墨書してある。

 元禄のころは、柳亭種彦がいうように、看板の下部に質札の反古をたばねてあった。延宝から享保のころになると、「質札の反古にはなきさまにて、胡粉にて白く隈どりたる」ものに変ってきた。

 近藤清春の『外道百人一首』には、享保年間の質屋の店先が描いてある。将棋駒形の看板の上部に、反古をたばねてある。

 享保以降は、将棋駒形の看板もしだいに姿を消して、「其板をかくる事止みて後は、彼の塵はたきめきたる物とのみなれり。是は京師にも今もありと聞けり。夫故やらん、近きかな草紙の画にもおりおり見ゆれど、板札をかきたるは稀なり」と考証家らしく種彦は、看板の移り変りを示している。

 『用捨箱』は天保十二年の刊行である。そのころは、すでに駒形の看板は見えず、たいていは「塵はたきめきたる物」を用いている。ところが、テレビの時代物を観ていると、質屋の看板は「駒形」と決めこんでいるらしく、時代にかかわりなく「駒形」を店頭につるしてある。いかがなものであろうか。

 江戸時代は、質屋に限らず、なぞなぞのような看板をつるすことが多かった。酒屋は、杉のうす板をつるし、産婆(トリアゲといった)は、軒下に一本の綱をつるした。銭湯は、弓矢をつるして、弓射る(湯入る)と洒落れて見せる。

 また、『用捨箱』は、「古来饅頭うる見世の縁先に木馬を出したり、アラウマシといふ心を表したり。元禄の比やみたり」と『我衣』の文を引用して、人に筆写させたという餅屋の木馬図を載せてある。

 鞍には将棋の駒を刻むが、将棋の文字はみつけ難い、と註を付してある。これも縁起をかついで、金か銀の駒を刻みこんでいたのではなかろうか。

32 町火消の目印-2010.06.01-

 江戸は火事が多かった。火消は「江戸の華」ともてはやされたが、幕府当局者は火災予防にほとほと手を焼いていた。

 享保二年(一七一七)正月の大火は、江戸城にまで火の手が及んだ。就任間もない八代将軍吉宗は、自ら火事羽織を着用し、頭巾を帯にはさみ、雨戸を梯子として屋根に飛び上って消火に努めたという。

 「紙と木」で造られた日本家屋は火に弱い。江戸城の火災を経験した吉宗は、時の町奉行大岡忠相と相談して瓦葺や土蔵造りを奨励したり、火除地を増し、さらに享保三年、江戸市中の火消規則を制定した。

 江戸の消防組織は、幕府の定火消、大名の抱火消、町火消から成っている。町火消は日傭請負である。その町火消を費用ぐるみで町方にゆだねることとした。享保五年、江戸市中の消火区域を定め、初めて「いろは組」の制を設けた。

 斎藤月岑の『武江年表』には、

 —享保十五(一七三〇)庚戌

 正月、江戸町火消四十七組を十組に定められる。(目印将棊の駒なり、纒の吹流し止めてばれんを付す。この時、小組四十七組なり。後に本組出来て四十八組となる。小幟止めて追々小纒出来る。大纒小まとひともに銀箔なり)・・・。

 この記録を読んだときは、ちょうど将棋駒形が庶民の生活とどう係りを持つかを調べていた。夜、床の中で、『武江年表』を読んでいて、心中で快哉を叫んだことを覚えている。

 数日経って、たまたま所用があって、二上達也九段と新宿のデパートで待合せをした。すこし時間があったから、催し場の古地図展をのぞいて見た。すると、思いがけなくも、幕末発行の四十八組の目印がみつかった。値段も三百円と安い。そのとき、『武江年表』の記述を裏付ける資料を得て、再び、心中で快哉を叫んだ。将棋史に大切な資料も、時には、こうして偶然に手に入れることもあった。

 私が手にした四十八組の目印は、『武江年表』が伝えるごとく、十組とも駒形を用いていた。「いろは組」の目印のほうは、四十八組のうち、十三組だけが駒形となっている。時代の流れとともに、さまざまな物に姿を変えて行ったのであろうか。

 町火消の火消人夫は、鳶の者、また単に、鳶と呼ぶ。文化二年(一八〇五)二月十七日、芝神明境内で「め組」と相撲の者とが喧嘩した。有名な「め組の喧嘩」である。その地域は、二番組の「め組」が受持つ消化区域であった。調べて見れば、「め組」の目印は将棋駒形でないことが判ってがっかりした。

 目印に駒形を指定した吉宗は、将棋が好きで、御城将棋の日に「御好」を命じたこともあった。それに、勢いよく突走る将棋の駒は、鯔背な江戸っ子の気性にぴったりする。その辺のことも、吉宗は呑みこんでいたのであろう。

 近ごろは、復古調の世の中となり、羽子板にも、町火消の勇姿が描かれるようになってきた。その季節には浅草あたりを歩くが、駒型の目印にお目にかからない。

 製作者が、目印の由来を知れば、きっと駒形に作ることだろう。残念でならない。

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