67二代目金竜 -2013.6.01-

 将棋の歴史に興を寄せ、自らも、西洋・中国将棋の考証をした幸田露伴は、『将棋雑話』のなかで、駒の銘に触れて、つぎのように書いている。

 —金竜は真竜よりも勝れ、真竜は安清より勝れたり。金竜、真竜などの造れるは王将の後に銘あり。駒の文字もいと正しく読み易く、玉は二枚とも必ず玉と書しありて王とは書さず。安清のは銘はなけれど、其文字飄逸の趣きありて、おのずから一家をなせば、一見して知るべし・・・。

なかで、金竜のことは、駒師で故人の宮松幹太郎氏から、甲賀源吾の縁故者らしい、ということを耳にした。古い駒師からきいた、ということであったらしい。

 そこで私は、知合いの古本屋に頼んで、甲賀源吾の伝記をさがしてもらった。いくばくもなく、昭和七年刊、私家版の『回天艦長甲賀源吾伝』が手許に届いた。

 その本には、金竜のことが出ていた。

 金竜には、初代と二代目とがあって、露伴のいう金竜は二代目であるらしい。初代は、銘も残さぬままに消え、二代目金竜が「金竜」として銘を残したことが判ってきた。

 掛川藩主太田資始(備後守)の旗奉行、甲賀孫太夫秀孝には、四男一女がある。次男の五郎左衛門氏治が、のちの二代目金竜。四男が、明治二年三月二十五日、回天艦長として宮古湾で壮烈な戦死を遂げた甲賀源吾秀虎である。

 金竜の氏治は、文政十年(一八二七)六月五日に掛川で生れ、明治六年四月六日、東京・五反田で四十七歳の生涯を閉じている。

 弘化三年、二十歳で江戸に出て、二見家を継いだ。三十五俵三人扶持の薄禄であったから、いまでいうアルバイトをした。

 駒作りも、そのアルバイトの一つである。

 嘉永五年は二十六歳。この年、金竜の名で駒を作る町井利左衛門(伝不詳)から、駒作りの技法を学んだ。「伝を受け利に耽る」と誌されてある。

 金竜の氏治は、俳諧集を編み、謡も宝生流の伝授物を許されるまでになったが、アルバイトも熱心で、早合(紙製の小筒に火薬を包んだ小銃の弾丸)を作って、あちこちに売り捌いて可成りの利を得た。動乱の世にあって、幕臣の節を完うした弟の源吾とは対照的な生き方をした。

 正式に、二代目を名乗ったのは、文久三年、三十七歳。「斉田小源多(伝不詳)より将棋の銘金竜を譲受け、礼金三分を出す」と書いてある。

 一両は四分だから、一両足らずの礼金で、さほどに高い権利金ではなかったといえる。

 アルバイトをしながら、太田候の近習から馬廻役に進み、大政奉還後は藩の大目付に昇進した。駒作りは、近習から馬廻役のころにかけてアルバイトであったのだろう。

 手作りの駒は伝わらぬが、その銘は宮松氏の許に保存されているのを見た。楷書で、玉は二枚とも、玉と書いている。

のちに、何かの記録で、二代目金竜の駒を高値を呼び、一組は三分であったことを知った。三分の権利金を支払って二代目金竜の名を譲り受け、有り余るほどの利益をえたこととなる。

 商才に長けた人であったらしい。

 〔後記〕偶然、手に入れて仕事用に愛用する小形駒は金竜の銘で、宮松師の遺作である。

68番太郎駒 -2013.8.01-

 番太郎駒といっても、いまの将棋ファンには通じないかも知れない。いつのころまで、この語が罷り通ったのであろうか。明治の代に棋界入りした故土居市太郎名誉名人は、

 「わしらは、番太郎駒といっていたものじゃ」

 と懐かしそうに語ったのを覚えている。

 番太郎駒とは、いまでいう大衆駒のことである。

 江戸時代の物識時点のたぐいである『嬉遊笑覧』に、俗に下手将棋のことを、「番所象棋」といったと書いている。

 江戸時代は、市中警戒のために、町内の一隅に自身番を置いた。町内の地主が順番に詰める建前となっていたところから、その名を生んだ。のちには、地主から給金をもらう大家(家守・差配人)が詰めるのが普通となったが、自身番の名称はそのまま残っていた。

 町内には、ほかに木戸番があった。江戸では、その番人を番太郎といった。火の番や盗人の番に当り、非人身分の者が召し抱えられることが多かったらしい。お膝元の江戸では、ふつうの平民がやとわれ、町内の番小屋に住んで駄菓子や雑貨などの内職をしながら、その任を勤めていた。

 『嬉遊笑覧』でいう番所将棋は、木戸番の番太郎たちが指す将棋のことをいう。いまでいう縁台将棋である。

 たぶん、安物の駒を使い、手垢によごれて駒の銘も判じ難くなったものも多かったであろう。その真黒によごれた駒を「番太郎駒」とか「番太駒」と呼んだ。ときに、鱗形屋が売出した紙製の「懐中将棋」も奪い合いになったことだろう。

 式亭三馬の『古今百馬鹿』に、「てめえたちは歩三兵で相応だ。自身番象戯か床店象戯とは段が違わァ・・・」というくだりがある。縁台将棋とは格が違うという啖呵だ。そういう啖呵を切る者もまた、縁台将棋の腕前であったのだろう。

 江戸時代は、木戸番とか、床店で縁台将棋を愉しんだ。もう一つ、各所にある銭湯も縁台将棋の大事な舞台であった。

 江戸の庶民は、風呂好きである。三馬の『浮世風呂』は、縁台将棋の洒落で賑った。銭湯は、たんに湯に入るだけでなく、庶民の集会所であった。ことに幕末になると、二階を集会所に当て、将棋や碁に熱中する人びとがたむろした。茶の接待もある。いまの将棋クラブの前身は、銭湯の二階の将棋会所ということができるかも知れない。

 ところで、番所将棋について、『嬉遊笑覧』には、もう一つの記述が見える。

 —つまりつまりのよき番所、さまざまの手をさすがなる象棊会とあり、この将棊のかたにいふ番所は象棋所という也、されば下手と云にはあらず・・・。

 将棋所というのは、徳川幕府の職制に組み入れた将棋役—将棋三家の総称であり、ときには、名人の別称でもあった。

 江戸後期、将棋三家の実力は衰え、民間派が勢力をのしてきた。山東京伝は滑稽本の『指面草』のなかで、

 「近代小田原の魚売の子胤名高き儒者となり、菓子屋の子胤将棊所になるものあり」

 と書いている。

 番太郎駒の愛用者も、やがて、いく人かはプロの道に転じたことだろう。京伝のいう「菓子屋の子胤」は、伊藤家を継いで五台宗印を名乗った鳥飼忠七のことである。

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