71榧を以て之を製す -2013.12.01-

 『御湯殿上日記』の慶長十二年五月三日の条に、「五はんや(碁盤屋)しゆりやう(受領)申て御礼に五はん(碁盤)ごいし(碁石)しん上(進上)候」という記述がある。

 そのころから、盤は高値のものであったらしい。元和のころ、値段は、「二文目分之由」という記述もある。

 黒川道祐の『雍州府志』に、将棋盤は、「二条東あるいは京極に於て之を造る、榧木を以て之を製す」(原文漢文)と書いてある。

 昔から、盤は榧を以て最上とした。栃材も良とされたが、これは家具に需要を奪われて、いまではすっかり姿を消している。また、榧材の代用として量的に数多く普及するのは、桂材である。

 桂材は、材質は堅からず、軟からずという点ですぐれるが、灰汁を多く含んでいて、長く使ううちに表面が黒くなるという欠点を持つ。

 近ごろは、プラスチック製の盤も市場を賑わしている。柾目なども自由に加工することができて、見た目には、榧盤と区別しがたいような製品も出廻っている。

 ほかに、銀杏、檜、椹、欅、楓、桜なども盤材として用いることがある。

 どの木を使って盤を作るのも勝手であるが、「美しき」「駒のひびき」「耐用性」という三つの点から見ても、榧材は群を抜く。長い歴史の風雪をくぐり抜けて、いまなお榧材を最高とするのは、むべなる哉である。

 榧の主産地は、九州の宮崎。この稿を書くために当代の前沢銀三氏を訪ねて、盤について取材した。宮崎でも、めぼしいものは伐り尽されて、いまや榧材を確保することが盤師の浮沈を左右するという。

 榧材を手に入れるために、盤師はそれぞれに山師(材木屋)を傭っている。餅は餅屋のたとえ通り、そのほうが入手も確実で費用も安くつくらしい。立木で買うか、国有林などで採伐したものを入札で買うか、どちらかの方法で手に入れるという。

 「よい原木がみつかれば電話が入ります。すぐに、飛行機で現物を見にゆくのですよ」

 盤師は、榧材の入手困難を訴える。

 買付けが決まれば、木挽きを傭って製材し、二尺の大割にし、墨かけ(盤の大きさにするが、四・五寸大きめにする)して東京に運んでくる。

 立木の場合は、目通(目の高さに相当する点の樹の直径)一丈二尺ものを理想とする。これなら、直径は三尺以上になる。これと見込んでも、なかにウロ(腐り)があって、全く使いものにならないものもある。

 盤師は、こうして入手した良質の榧材を仮ごしらえをして四、五年は乾燥させる。あるいは、二年ばかり使ったうえで最後の仕上げをかけるか、どちらかの方法を用いる。

 それほど慎重に構えても、乾燥期に割れたり、カビが生える盤もある。目には見えないが、立木で割れていて、製品化してから割れ目が出るものは、いかなる名人を以てしても防げないものらしい。

 水分は八割方、木口から蒸発する。なかの水がうまく蒸発しないと、割れたり、カビたりするわけである。

 桂は北海道物が多い。道産物と呼ばれて質はよいが、需要の急増で品不足となり、近ごろは東北物が多く見られるようになった。

 洋材の輸入もある。台湾檜(台檜)も質はよいが、品不足。だから、値も張ってしまう。米檜、カナダ檜が輸入の大部分を占めるのが現状である。

 盤師は一人前の職人になるのに、十年の修業が要るとされる。駒の場合と同じく、機械作りが大勢を占めて、伝統に磨き上げられた手作りの盤師は、いまや、数指を屈するほどにすくなくなった。

 それでは、手作りの技法を承け継ぐ盤師にとって、会心の作とは何をさすのか。前沢氏は、こう語った。

 「盤の前に坐っただけで気持が落着く・・・きびしさ、ぴりっとしたものを感じる・・・材質から技法までが、すべて心に適ったものといえましょうか。滅多に作れるものではありませんよ」

 何やら禅問答めくが、名盤を見せてもらうと、私にも納得がゆくような気がした。

72慶長版の図式 -2014.01.01-

 芦屋市の故西村英二氏は、日本一の古棋書蒐集家である。ただに愛蔵するに留らず、その道の研究でも最高の人であった。

 将棋の歴史を研究する人は、だれでも、氏の助けを仰がねばならない。十数年前、手紙を出したことがきっかけで、氏と私との交りは深くなった。

 蒐集家は、往々にして愛蔵本を他人に見せたがらない。苦心して蒐めたものを、わけもなく公開したがらないのは人情だろう。ところが、故人は世の蒐集家と異っていた。どんな貴重な資料でも、快く複写を許され、時には、ご自分で複写して下さることもあった。

 蒐集家というよりは、文化財を大切に保存して、いついつまでも世のために役立てようとする文化人であった。実業家として多忙な日常の中で、保存・整理にも精魂を傾けていたときく。

 いま、蔵書目録を拝見して、これこそ、将棋の歴史と文化を伝える「西村将棋図書館」だと感銘を受けた。一冊一冊を見れば、類本もある。欠本もある。しかし、どの一冊を欠いても、将棋史の研究に支障をきたすことは明らかである。

 そうした観点からすれば、蔵書の一つ一つについて、価値の軽重を問うことはできない。それは承知のうえで、敢て私は一冊を取上げて見た。

 『将棋図式』(伝慶長版)

 一世名人・初代大橋宗桂の図式集(詰将棋集)は、日本で一冊しか伝わらぬ貴重本である。さすがに貸出しは許されなかったが、複写には快く応じてくださった。

 故人は目録に、「伝慶長版」と「伝」の字を加す。そこにも故人の良心がしのばれるが、これこそ正真正銘の慶長版である。

 その理由として、つぎのことを挙げたい。

 図式五十番を納めるこの図式は、元和二年(一六一六)版では八十番に増える。宗桂の長子・二代宗古が補足したと記してある。

 五十番が八十番に増えることは、五十番の図式がすでに存在していたことを証する。さらに、元禄十六年(一七〇三)版は、百番を納める。これも編者が補ったと書いてある。とすれば、五十番を納める図式は、八十番を納める元和版より古く、慶長年間に板行にのせられたことは間違いない。

 先手の駒は白抜き、後手は文字という珍しい工夫を凝らせてある。棋書を作るにも、日本人の美の心が宿っていて、嬉しいものである。

 棋書のほかに、古免状、将棋番付、錦絵、戯画を故人は多く蔵する。

 古免状で一番古いのは、元禄十年(一六九七)、四世名人・五代大橋宗桂が差許したものである。

 将棋番付で古いのは、文化十二年(一八一五)開板の「浪花将棋相撲」。町人の地らしく、アマチュア棋客の番付であるものも愉しい。

 錦絵には、国芳の「香車の駒」がある。芳員の戯画、「一ノ谷見立将棋合戦」も貴重な資料である。

 故人は、京都で学生生活をすごすころ、古棋書に魅せられたときく。将棋に対する情熱がなければ、歳月をかけてこれほど完璧な蒐集とはならなかったろう。

 故人の願いは、この蔵書をいつまでも伝えたいことであったときく。老後、実業界を退いて、蒐集した古棋書や諸文献を整理して将棋史を書き上げるのが念願であった。早く逝いて業は成らなかったが、この厖大な蒐集品は、それ自体が立派な将棋史である。謹んで御冥福を祈る。

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