35 駒形の歌カルタ-2010.09.01-

 カルタは、天正年間(一五七三〜一五九二)に輸入されたといわれる。延宝三年(一六七五)の序のある『遠碧軒記』には、南蛮渡来のものと書く。それが通説となっているらしい。

 それとは別に、古くから日本には、「歌カルタ」という遊びがある。「歌貝」から転じたものという。蛤の貝の内側に贈答した歌や、歌の上の句・下の句を書き、それを貝合せ(貝おおい)の遊びに従って取る。それは、西行法師の『山家集』にも見える。藤原定家の『明日記』にも見える。王朝華やかなりしころの貴族の優雅な遊びであった。貝合せは、蛤の貝に和歌の上の句・下の句を書いた。それを紙に替えたのが、「歌カルタ」である。貝から紙製に変ったのは、南蛮カルタの影響であったらしい。

 「歌貝」の由来を書いたものに、宝暦十三年(一七六三)刊、大枝流芳の『雅遊漫録』がある。

 —世上にて俗にうたかるたと云、賤しき言なり。かるたとは本蕃語にて、博奕之具の名なり、具合の容易になしがたきにより、これをうつし用ゆ。・・・中略・・・今民間に製するものは牌のごとくにす。

 本式の物は駒形に作る・・・。

 駒形はうまく円形に並べることができて一番よろしい、とも註釈を付してある。

 下って、安永二年(一七七三)に、有職故実に詳しい伊賀貞丈は、『二見之宇羅』を著わし、大枝流芳の記述の誤りをただして、

 —歌貝形の事流芳が云、本式の物は馬形に作る云々、高札といへるは将棊の馬の形に上の方すぼく頭三角にして下は広くして方し、是は貝の形をかた取たる物也、四角に作るは古風にあらず・・・。

 と自己の研究を発表する。

 長々と二人の論を引用したのは、これによって将棋駒形の由来をさぐる便としたいからである。駒形の由来については、想像をたくましくすれば、手掛りとなる素材も得られる。しかし、私は、あくまでも「想像」を排して、文献のうえでさぐってゆきたい。

 伊藤貞丈は、将棋の駒は、「貝の形をかた取たる物」と書く。文献のうえで私の知る限りでは唯一の記述だ。芦屋市の「滴翠美術館」には、延宝年間のものとされる将棋形の歌カルタを蔵してある。伊勢貞丈の説を裏づけするものとしても貴重な資料である。

 先日、『遠碧軒記』を読み返していて、含蓄ある記述に接した。「笏」は「文・武官が束帯着用の節、右手に持って威厳を整えた板片」として知られる。もとは、「歴々の死後には笏に官位姓名卒去の年月日をかきて、棺槨の内に入れて葬る」もので、「今の位牌なり」と遠碧軒は書き、駒形の図を示す。また、「圭」といって、「玉にてもして天子はもち玉ふ」とも書いている。

 圭は、上部がとんがって、下方が四角の玉をいう。「圭冠」というかぶりものもあった。尾崎雅嘉は、浪花の人、「蘿月庵国書漫抄」のなかで、その「圭冠」の図を示す。駒形に似たものである。

 そうした資料を整えて、いずれ私は駒形の由来記を書いて見たいと思っている。

36 はだか王-2010.10.01-

 江戸文芸の一つのジャンルに、川柳がある。俳諧の末流である前句附から発展して、「うがち」「おかしみ」「言葉の遊び」などを内に秘めつつ、独立した十七字の短詩形文学。そのように定義づけていいだろう。

 初代の柄井川柳が前句附の点者となったのは、宝暦七年(一七五七)。前句附は、七七の題句を出して、それに、五七五の附句をつけることをいう。

 柄井川柳は、こうして提出した題句と、これに応募した附句のなかから、佳句を選び出して摺物とした。それが、『川柳評万区合』と呼ばれるものである。

 応募者の中に、呉陵軒可有(号は木綿)という者があった。この人は、『川柳評万区合』の摺物が年々散逸するのを憂えて、五七五の附句だけで意味が判り、鑑賞にたえる作品を選んで『誹風柳多留』と名づけて刊行した。初編が出たのは、将棋好きで知られる十代将軍家治の明和二年(一七六五)である。

 ほかに、『誹風柳多留拾遺』『川傍柳』『武玉川』など十余種の刊行物があり、二十万余句をいまに伝えるという。

 ふだんは、江戸時代の川柳を現代の川柳と区別して「古川柳」と書く。この稿は、江戸時代の作品を扱うので、とくに「古川柳」という呼称は用いないこととした。

 川柳の題材は驚くほど多岐にわたる。そのなかで、将棋を詠んだ句を拾って見た。八十に余る句を発見した。(『誹風柳多留』は編数・編年を、『誹風柳多留拾遺』は、「『拾遺』」、『川柳評万句合』は「万句合」、『川傍柳』は、「傍」『武玉川』は「武」と略記することとする)。

 はだか王らしく引ヶ四ッ迄すわり(万句合・明和八年の投句)

 吉原の張見世。遊女にも階段があって、最高は太夫。この名称は宝暦十一年まで用いられたという。太夫は「松の位」と呼ばれて、揚代は九十匁。銀六十匁を一両とすれば、一両二分ということになり、庶民には高嶺の花であった。

 明和のころは、昼三と名称が変った。以前の太夫に相当する。昼夜とも三分。揚げ詰めにすれば、六分で、換算すれば一両二分ということとなる。

 太夫の次の位は格子で、一両。次は散茶。その次は、うめ茶。昼夜の揚代は一分であったから、庶民には手ごろな遊び相手である。

 句は、見世の太夫格ともなれば、簡単には客がつかず、店をしまう刻限の「引ヶ四ッ」(吉原では午後十時を引ヶ四ッとする)まで見世に坐っている。盤上の「裸王」のごとしという見立てである。

 うしろから王手王手と一の谷(万句合・宝暦八年の投句)

 寿永三年(一一八四)二月七日の一の谷合戦。一の谷に陣する平家方。ひよどり超えの逆落し。源義経の奇襲を詠んだ句である。「飛車角のみんななりこむ一の谷」という佳句もある。

 歴史を題材にした句としては、後者のほうが切迫感が漂って面白いと私は思う。

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