1 将棋事始め-2007.11.01-

 昭和四十八年の夏、越後朝倉氏遺跡から将棋の駒百七十七枚が出土した。なかに、酔象の駒が一枚まじっていた。酔象は、いまの将棋が生まれる以前の古将棋に用いた駒である。

 それは、文献の上では知っていたが、遺跡を訪れて現物を目にしたとき、大げさにいえば、私は感動した。四百年も土中に眠りつづけた一枚の駒が、日本将棋の起源について、謎ときの手掛りとなると思ったからである。

 いい伝えによれば、中国から日本に将棋が輸入されたのは八世紀である。渡来した将棋がどんなものであったか、知るよしもない。日本で指された将棋の初見は康治元年(一一四二)、悪左府の名で知られる藤原頼長が大将棋を指したという『台記』の記述である。

 古将棋は大別すれば六種となるが、実際に行われたのは大・中・小将棋の三種ではないか、と私は見ている。平安時代には、別に大将棋(駒六十八枚)と将棋(駒三十六枚)があったことは、前田家旧蔵の『二中歴』に誌されている。右と相前後して、大将棋(駒百三十枚)、その後に中将棋(駒九十二枚)、さらに下って室町時代に小将棋(駒四十六枚)が誕生した。

 朝倉氏遺跡で酔象が出土したことは、小将棋がさらに簡略化され、最後に酔象をのぞく小将棋(いまの将棋)に移行した経路を暗示する。

 天文年中、後奈良天皇が古武の小将棋から酔象をのぞかせた、という口伝がある。その伝えも、にわかに現実味を帯びてきたようである。

 いまのように駒を再使用するのは、世界の将棋のなかで日本将棋だけがもつ面白いルールである。異民族をまじえぬ日本人の合戦は大将を討ちとれば、配下はわが勢力に加えた。そうした歴史の背景のなかで、日本独自のルールが案出されたのではないか。そのルールのかげに、日本民族の「おおらかさ」を見る思いがする。

 日本将棋の駒の名称は、玉、金、銀、桂、香と珍宝桂品の形容がつく。もとは、みやびやかな宮廷の遊びであった。江戸時代に大名の姫君が嫁ぐとき、碁・将棋・双六の三面を持参した。雛祭にも三面を飾る風習があった。それらも、将棋が王朝貴族の欠かせぬ教養であったことの名残りではないだろうか。

 室町時代から安土桃山時代になって、将棋の担い手は武将の手に移った。江戸幕府を開いた家康は、将棋のゲームを「戦陣」に見立てた信長とは逆に、戦国武士の荒々しい気性を和らげるために「娯楽」として推奨した。

 そのときより、将棋は幕府の庇護のもとに繁栄を約束されている。三代将軍家光は、年中行事の一つとして御城将棋を催した。その式日が十一月十七日と定まったのは、八代将軍吉宗の代からである。

 将棋が庶民の娯楽として人気を博するのは、江戸後期である。川柳、狂歌、草双紙ににぎやかに登場する。緑台将棋も盛んになった。

 将棋が庶民のものとなるころ、幕府の崩壊と共に御城将棋の行事は消え去った。百余年の歳月がすぎて、いま将棋界は由緒ある十一月十七日を「将棋の日」として復活させた。いまほど将棋愛好家が増え、伝統文化を背おう将棋に対する認識を深めた時代はない。

 現代人は将棋のゲームを「頭の体操」と呼ぶ。駒を再使用する日本将棋は、変化は限りなく、尽くることを知らぬ雅趣を秘める。五百年の遠い昔、この知的ゲームを発案した日本人の頭脳はすばらしい。

 将棋史をひもとくことは、また私にとって日本人の心を訪ねる謎ときともなるわけである。

2 酔象発掘-2007.12.01-

 昭和五十年十月十二日、NHK総合テレビは「酔象発掘」と題する十五分番組を放映した。一乗谷の朝倉氏遺跡から出土した百七十七枚の駒のなかに、一枚だけ見馴れぬ駒が混っている。その駒の謎解きをする役目を負って私も出演した。

 酔象の裏駒は、「太子」である。酔象は、うしろに動けぬだけで、あとは玉と同じ動きをする。その酔象が成って太子となれば、玉と同じ働きをするし、こんどは太子が玉の世継となり、太子が詰まされるまで勝負はつづく。

 つまり、玉が二枚あるのと同じことで、だから「玉よりは飛車が逃げたい下手将棋」と江戸時代このかた緑台将棋を賑わす古川柳の情景などは、あろうはずはなかった。

 酔象は、古将棋で使われていた。古将棋のなかで、いまも指し方が判るのは中将棋(盤面は縦横各十二目・駒は九十二枚)だけである。放送番組は、酔象駒の発見によって、これまで不明であった現行将棋の誕生が証明できはしないか。それが狙いであった。

 実のところ、私は戸惑った。

 放送番組が意図するように、「中将棋を簡略化したものが現行の将棋である」という解答が出れば有難い。そのように筋書きをたてては見たものの、それを裏づける文献が新しく発見されない限り、断定することは許されないだろう。

 文献としては、元禄九年(一六九六)刊の『諸象戯画式』に、「天文年中、後奈良帝は日野晴光、伊勢貞孝等に命じて酔象を除かせ」て、いまの将棋(小象戯の字を用いる)を作ったと誌すのが、唯一のものである。

 これまで私は、この文献を一つの口伝として受取っていた。『諸象戯画式』は史料としては必ずしも良質でないという考えもある。ただ、こんど酔象駒が実在したことが明らかとなり、先の「口伝」も、にわかに現実味を帯びてきたように感じはじめた。

 いままでは、中将棋(A)のあとに、いまの将棋の原型である小将棋(B。いまの将棋に酔象と猛豹が加ったもの)が生れ、それが簡略化されて、現行の駒四十枚の将棋に移行した。文献的に見て、そのように私は解釈していた。

 大筋では、いまも、そう信じている。が、朝倉駒に酔象が一枚だけ混っていたことは、もう一つの推理を可能にするようである。

 酔象駒のほかに、猛豹駒が出土していれば、中将棋から小将棋を経て、現行の将棋が誕生したことが証明できる。猛豹駒はなく、酔象駒だけが発見されたことは、『諸象戯画式』に載せる小将棋(C。いまの将棋に酔象が加ったもの)が、過渡的に試みられていたという推論も成立つだろう。

 とすれば、天文年中ということは別として、

 A→B→C

 という順を経て、いまの将棋が完成したという仮説も捨て難い。テレビ番組で、私はそのような推理をおし進めて行った

 その番組で、酔象が加る小将棋(C)を仮りに「朝倉将棋」と呼ぶこととした。「朝倉将棋」は、現行将棋とちがって、古将棋と同じく駒は、「取捨て」のルールであろう。一緒に出演した大山康晴名人も、「取捨てでしょうね」と推論していた。

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