51芭蕉の句 -2012.01.01-

 延宝・天和のころ(十七世紀後半)、談林風の俳句が横行するなかで、芭蕉の登場は新風であった。江戸に出て深川六間堀に芭蕉庵を結び、俳諧に高い芸術性を賦与して「佗び」の境地を拓いた。

 芭蕉門には、将棋好きな俳人が集っている。宗匠もまた、旅の日のつれづれに将棋を愉しんだのではないだろうか。

 門下の各務支考は、俳文の『将棋の賦』で駒の性能を活用して美文を綴った。幸田露伴は「才筆縦横、所謂俳諧文字の上乗といふべきもの」と賞讃する。

 同じ門下の谷木因(享保十年没)は、享保二年(一七一七)刊の『象戯図彙考鑑』巻一の「名寄せ」に、そのころの強豪と並んで、初段として名を連ねる。

 宝永四年(一七〇七)刊の『旅の真似』で、「将棊といへる遊びに成りて、ともし火にも猶やまず」と木因は、親しい仲間と将棋に熱中するさまを書いている。

 そのころは、行燈の時代である。将棋遊びが夜にまで及ぶというのは、稀のことである。いまからそう遠くない明治のころ、時のプロ棋士は、戦いが夜に及んでランプのもとで対戦することは、「やむを得ざる」ときに限っていた。それを思えば、遠い江戸時代、行燈のもとで指しつづけたというのは、よほどの将棋好きを告白したものであろう。

 宗匠の芭蕉も、将棋の句を詠んだ。元禄十三年(一七〇〇)刊の『諸国象戯作物集』は詰物五十一番をおさめる。その本に、

 山桜将棊の盤も片荷かな
 夏の夜や下手の将棋の一二番

 という二句が、芭蕉作として紹介されている。俳句が好んだ八段建部和歌夫(故人)は、紛れもなく芭蕉の句であると語っていた。

 芭蕉の句にしては、月並である。俳人はどう評価するだろうか、と学友の宇野犂子にきくと、「どうも、芭蕉にしては・・・」と首をかしげていた。

 その後、連句のなかに芭蕉の将棋の句を発見して、俳聖もなかなかの将棋好きであったことが判ってきた。

 発句とともに、芭蕉は数多くの連句を詠んだ。

 貞享元年(一六八四)八月、四十一歳の芭蕉は『野ざらしの旅』に出た。東海道を西へ道をとり、伊勢から伊賀、大和、吉野、山城・近江・美濃を経て、熱田に足をとめた。

 熱田で『熱田三歌仙』を詠んだ。前書には、「尾張の国あつたにまかりける比、人々師走の海みんとて、舟さしけるに」と誌してある。吟者は、芭蕉、桐葉、東藤、工山の四人。

 第八句、東藤の「一輪咲し芍薬の花」をうけて、

 棋の工夫二日とぢたる目を明て 芭蕉

 芍薬の花が咲くのをうけて、「二日とぢたる目を明て」と詠んだのは、巧みである。将棋好きの人でなければ、この句は出てこないだろう。「棋の工夫」は、将棋と解してもよい。もっとしぼっていえば、詰将棋と解していいのではないか。

 蕪村や一茶にも将棋の句がないか、と調べている。残念ながら、いまのところ、お目にかかっていない。

52インドの伝説 -2012.02.01-

 将棋は、インドに端を発している。『ブリタニカ百科事典』にも、そう書いてある。

 インドに興った将棋は、ペルシャを経て西欧に伝わってチェスとなった。一方、中国に伝わって中国将棋、さらに中国から日本に来て、日本将棋となった。それが通説となっている。

 インドからペルシャに伝わったことについては、ペルシャの詩人の稿に、印度の王から使いがあり、将棋の盤と駒とをペルシャ王ナウシラワンに示して、この秘手を解くか、然らずんば貢租を入れよ、と責め立てたという記述があり、それは六百年代のことだとされている。

 インドにおける将棋の創業について、つぎのような話が伝わっている。

 —いまを去る二千四百年の昔、印度にシネグラムという王様がいた。強勇の人で、四方の国々を攻めて領土をふやすことを喜びとした。国を治めるよりは、征伐を業とする有様である。しかし、休む暇とてない遠征で国民は疲れ果て、不満の声が充ち充ちていた。

 重臣たちは王の無謀を諌めるが、諫言に耳を傾けないばかりか、命に従わないといっては忠臣を遠ざけてしまう。

 ここに、バラモン族の貴族に、シッサという知恵者がいた。将棋のゲームを発案して、王をいさめようと考えた。シッサの発明したのがチェスで、駒には、王、后があり、僧官も兵士もいる。献上すれば、王は大喜びで、さっそく、二人で勝負をした。

 シッサは、すかさず、いった。
 「将棋は、将兵、よく力を合わせて敵を制することができるのでございます」
 「申す通りじゃ」
 「王も他の駒の協力が無くては勝てません」
 「まことに、汝の申す通りじゃ」
 「王様も、そのようにお考えでございますね」
 シッサは、すぐにつづけた。
 「将棋だけではございません。国の政治も、外征の戦いも、将兵の心が離れては、王様のすぐれた勇猛と才知を以てしましても、御心のままになりません」
 「まことに、汝の申す通りであるぞ」
 「王様。この理をおさとりのうえは、何とぞ、内政に御心をお砕き下さいませ」

 王は、真情を吐露するシッサの諫言を受け入れて、以後は外征を慎み、内政に意を用いたので、この国は繁栄富楽となった・・・。

 インドにおける将棋の創業は、五千年前と語られている。そんなに古いものなのか。

 昭和五十一年五月十五日付の『朝日新聞』は、タイ美術省と米ペンシルベニア大学の考古学者が、タイ東北部には紀元前三千六百年ごろ、すでに青銅器を使用する文化が発達していた、と発表したことを報じた。人類最古の文化とされるチグリス、ユーフラテス川流域の文明より、さらに六百年も古いという。

 日本でも「朝倉駒」の出土によって、将棋史の謎を解く一つの手がかりを得た。考古学の進歩は、いつかは将棋創業に関する「世界の謎」を解いてくれるであろうか。

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