77王将説の論 -2014.07.01-

 江戸の昔から「王将説」を唱える人は、『あい嚢鈔』を引用する。それがまた孫引となって、その論を推し進めたらしく見える。

 その本は、文安年間(足利八代将軍義政のころ)に出版されたもので、そんなに古いものではなく、権威のあるものでもない。

 —将棊ノ馬ニ玉ヲ王ト云ハ何ノ故ゾ。両王イマサン事ヲ忌テ、必ズ一報ヲ玉ト書ク。是手跡家口伝ト云々・・・。

 手跡家の口伝と記すばかりである。幸田露伴は、「如何はしき愚なる口伝なりといふべし」と一蹴する。

 『御湯殿上日記』の文禄四年五月五日の条に、秀吉が三公卿を使として、「わうしやうを改めて大将になをされ候へ」と申し出た記述がある。これを「王将説」の根拠とするのも早計である。上方では、のちのちまでも、玉のことを「大将」と呼ぶ習しがあった。秀吉は、天皇家への機嫌とりに、そう申し出たにすぎない。私は、そう受取っている。

 時の後陽成天皇は、「承り置く」という程度であったらしく、その後も「大将」に改めという事実は見当たらない。

 中国の万暦二十年(一五九二)に出版されたとされる『日本風土記』には、一方を王、一方を玉と書く習慣があったことを伝える。便宜のために書きわけたわけである。

 むしろ、「王将説」を打出したのは、江戸時代の御用学者である。『あい嚢鈔』を孫引きし、「天に二日なし」という論を展開して、「王将説」を排撃する。

 蜀山人の大田南畝は、『半日閑話』のなかで、「六誹園立路の随筆寝覚硯の中」からの引用として、

 —王将に点をうつ事、王二人なし。故に馬の王には点を打つとこそ。飛車は大将、角行は副将、金将は極官として成りなし。故に成り馬は金になる也。惣数三十六禽の表也。〔割註〕又手去りこまには、王二枚共点打てあり。

 これも、天に二日なしという考え方から出た説であろう。

 さらに、『萩原随筆』には、

 —駒銘水無瀬ヲ家トス。王ノ字ニ点ウツコトハ、国ニ二君ナシノ心ト云ヘリ。又二王イマサンコトヲ忌テ、一方ニ点ヲウツトモ云ヘリ。或説禁中ニテハ両方ニ玉ヲ用、王ヲセムルト云コトヲ忌ユヘナリ・・・。

 このように「二王イマサンコトヲ忌テ」というのは、江戸時代は末となるころ、いわゆる「勤皇思想」の芽生えに歩調を合せて、にわかにいい出されたことである。

 文献の上から見ても、「王将説」には、しっかりした論点がない。むしろ、私は、そうした御用学者の説は排して然るべきだと思っている。 ただ、江戸時代後期は、朋誠堂喜三二が滑稽本の『古朽木』で書くように、「目上な人には王を与へ、我は玉を取って指すが象戯の礼」となっていた。 いまも、上手が「王将」を用いるのが棋界の仕来りとなっている。

78御城将棋の定義 -2014.08.01-

 江戸時代、将棋界で最高の晴れがましい行事といえば、御城将棋である。よく現在の名人戦にたとえる。「最高の栄誉」という点では、名人戦に匹敵するが、いまの名人戦は選手権戦だから、ほんとうは違った性格の行事である。

 出場者は、大橋本家、同分家、伊藤家の当主と嫡男に限られていた。この三家は、「将棋役」という役名で禄を受ける。いまの国家公務員で「二十石?人扶持」を給されているから、下級公務員ということになろう。

 御城将棋とは、定義をすれば、徳川幕府の年中行事の一つであって、毎年十一月十七日、将棋三家の者は囲碁方と盤を並べて、江戸城内の黒書院で将軍家に将棋を披露することをいう。だから、対局を披露することを「出勤」といった。

 黒書院は、白書院や大広間とともに、幕府の公式儀式に用いられる重要な部屋である。上段の間と下段の間とがあり、下段の間の先には十八畳敷の縁頬がある。

 碁の歴史を書いた『坐隠談叢』は、上覧図を掲げ、対局者は下段の間、将軍は、上段の間で観戦すると説明する。それに基づいて「御城碁手合模型」を作り、展覧会などにも展示するのを見たことがある。

 大変な誤りをおかしている。

 『本因坊家略紀』には、「御黒書院緑頬へ罷出」と書くし、『将軍徳川家礼典録』にも、将軍は、午上刻、御黒書院に出御、御下段御着座上覧これあり、老中、若年寄も出席」と書く。

 その記述の通り、将軍は、下段の間で観戦し、出勤者は、庭に面した十八畳敷の縁頬に盤を並べて対戦した。

 幸い、将軍方の『御城将棊留』に、寛政十二年の対局図が載せてある。それらの資料を参考にして、御城将棋の対局図を再現すれば、別掲のようになる。

 御城将棋の行事は、いつ始ったかは記録に明らかでない。すでに、寛永八年、十二年、十四年に「碁将棋御覧」という記録がある。享保元年に八代将軍吉宗が出した布令にも、「寛永の御吉例により」とあるところから、寛永時代に始ったと見てよいだろう。

 さらに、寛永二年(一六六二)、碁、将棋の徒は、寺社奉行の所属となった。そのころより、年中行事の一つとして制度化されたのであろう。

 御城将棋の棋譜を留める将棋三家の記録は、『御城将棊留』『柳営対局集』『無外題御城将棋』として伝える。岡田乾洲という人の手写本である。

 初めのころは、黒書院で実際に対局して見せた。それでは時間が掛りすぎるというので、寛文十二年以降は、内調(下指しともいう)の制をとり、予め対戦しておいた将棋を式日に披露するようになった。

 天保九年の記録によると、将棋三家は内調について、しばしば月番の寺社奉行と事務打合せをした。関係方面に差出す「棋譜書上」は十八通の多きを要したとも書いている。

 お役所仕事というものは、昔も煩瑣でスローモーであったらしい。

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