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将棋の豆知識79〜80 光風社 将棋101話 転用

79僧体で十徳を着して -2014.09.01-

 御城将棋の式日は、将棋三家の出勤者は、『暮朝年中行事歌合』によれば、朝六時に大手門前に集り、太鼓が鳴って閉門するのを待って黒書院に参り、月番寺社奉行の指図に従って対局を開始した。

 終るのは、だいたい午後二時ごろ。老中、若年寄も臨席した。午後二時退出というのは、老中の下城時刻に合わせたものであろう。

 将軍は昼すぎに姿を見せ、出座のないときは、褥(座蒲団)、刀掛を用意した。上覧のないときは、対局者は終局まで指し進めておき、老中の出座を以て終局とする仕来りであったという。

 出勤者には、家康時代からの慣例だとして、朝夕「二汁五菜」の料理が出た。何時ごろ、どこで、馳走に預ったのであろうか。

 歴史は、史料を漁って大きな流れはつかむことはできても、細かいことが判らないことが多い。何を食べたか、何を着ていたか。ものを書く立場の者として一番知りたいことが、実のところ、つかめない。

 幸いなことに、御城将棋に関しては、『本因坊家略紀』に、「朝夕二汁五菜の御料理、木惧にて下し置かれ、御吸物、御酒、御菓子、御茶下し置かれ」と記すが、それを、いつ、どこで食べたのか、それが私としては知りたいところである。

 服装は、十二代大橋宗金が明治三十四年八月二十三日、松浦大六二段の質問に答えた書面で知ることができる。

 ---御城将棋の際は、上着は御紋付、下着は白羽二重、十徳を着す。大橋家にては何歳位に相成ると、坊主に相成るとの御尋ねに御座候へ共、先づ初段となりて剃髪いたし、目見得に上り候故、本人の出来才智次第に御座候へば、何歳と定めし事も無之候。又、将軍は、黒の上着、継上下を着す・・・。

 将軍家の者は剃髪して、十徳を着した。初代の本因坊は僧侶であり、その弟子の初代大橋宗桂も僧体である。そんな「慣例」から、将軍家の者は剃髪するようになったのではないだろうか。

 いろいろと記録を調べて見た。だいたい、嫡男は十一、二歳で初段となっている。初段になって剃髪して、目見得に参上した。武家の仕来り通り、目見得を果さない者は家を継ぐことはできなかった。将軍の御前に罷り出ることも許されなかったわけである。

 盤とか駒は、そのつど新調した。盤は榧材を用い、側面は黒漆蒔絵をほどこしてある。

 長さ 一尺二寸(または一尺一寸八分)
 幅 一尺一分(または一尺八分)
 厚さ 三寸五分(または三寸八分)
 足高 三寸

 幕府の御用盤師が製作した。駒は、後水尾天皇宸筆の写し駒(いまの錦旗)か、水無瀬駒を用いたという。

 御城将棋の棋譜を留める『御城将棊留』の記載は、延宝八年(一六八〇)から文久元年(一八六一)までの百八十二年、局数は約二百六十五局、参列棋士は三十二名である。

 局数を正確にいえないのは、記載漏れや、御城将棋の対戦譜かどうか判じ難いものが混っているからである。

80お好み手合 -2014.10.01-

 御城将棋は、将棋三家の者しか出勤できなかった。幕末になり、将棋家に人材が欠け、いく人かは将棋家外の者も出勤した。棋聖とうたわれる天野宗歩(安政六年没)も、その一人である。

 宗歩は七段に留った。どんなに強くても、将軍家の者でないと八段は許されなかった。というのは、八段に昇れば、将軍所(名人)の有資格者となる決まりであった。だから、大天才の宗歩にも、七段しか差許さなかった。

 宗歩たちが御城将棋に出勤したのは、将軍家の門下生としてであった。「相手組」に欠員が生じたとき、ピンチヒッターとして起用されたにすぎなかった。

 ほかに、御城将棋の舞台に「御好」として、近習衆が登場して、将軍家の出勤者と手合せをした。将棋好きな十代将軍家治が考え出し、御城将棋の披露を早く済ませて、その場で対戦を命じた。

 明和四年(一七六七)の御城将棋の日に始り、天明五年(一七八五)までつづき、近習衆の参加は三十余名、局数は約八十二局(うち十局は棋譜欠く)に昇った。天明五年で終ったのは、翌年は家治は病気となり、ついに没したからである。

 お好み手合せは、家治の専売特許というのが、将棋史の記述である。私も、そう書いている。ただ私は、御城将棋の資料を漁るうちに、もう一人の先駆者を知った。

 国会図書館で、本島和辰の『月堂見聞集』の頁を操っているうち、享保七年(一七二二)の条に、「出御、御咄の内、早く相済候方へ、上意を以て又々被仰付候」という記載を発見した。

 八代将軍吉宗は、紀州藩で部屋住の辛い経験をした。そのころ、盛んに将棋を指したらしい。将軍になっても、御城将棋の日は必ず出座した。記録では、対局者にも話しかけ、早く済んだので「御好」を希望したと書いてある。

 その「御好」は、当日は出勤者に命じたものか、出勤者と近習衆との対戦を希望したものか、その辺のことは残念ながら明らかでない。ただ、家治に先立って「御好」を命じたという記録は、貴重な史料であると思う。

 そうはいっても、「御好」を制度化したのは、家治の功績である。自ら「御七段目」を唱えるほどに将棋好きであったから、将棋披露の行事は早く終らせ、「御好」を命じて熱心に観戦した。

 「御好」は、たいてい十数手で指掛けとなり、あとは近習衆の屋敷で、ときには夜を徹して指し継いでいる。将軍は昼すぎに姿を見せ、一時間ぐらいしか観戦できなかった。将軍は忙しい身であり、スケジュールを崩すことは許されなかった。いつも心を残しつつ、家治は座を去ったという。

 「御好」に登場した近習衆で、『御城将棊留』に名を記し、のちに抹消された人物がいる。

 その一人、奥医師の千賀道隆は、田沼意次の寵愛をほしいままにして栄耀栄歌をきわめた。

 「黒い高官」の田沼が失脚すると同時に、千賀道隆も失脚した。

 そうしたことを慮って、のちに、だれかが、『御城将棊留』から、その名を消し去ったのであろう。

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