15 陣中のつれづれに-2009.01.01-

 昔の合戦は、至ってのんびりしたものであった。最新兵器といっても、やっと戦国時代に鉄砲が用いられ、それも、火縄銃であったから、さほどの恐怖はなかったらしい。

 秀吉の小田原攻めは、のちに「小田原評定」という新語を生むほどに悠長な戦いであった。退屈しのぎに、武将たちは陣中で将棋を愉しんでいた。『北条五代記』には、余り将棋や博奕が流行して軍紀がゆるんだので、あわてて禁令を出した、と書いている。

 天正元年(一五七三)四月十二日、武田信玄は病没した。死を秘めていたのに、いつしか、それが家康方にも伝わった。前年、三方原で大敗を喫した家康は、「好機到来!」と再び兵を興して武田勢に立向かった。

 五月、駿府に入り、七月には長篠城に迫った。八月、作手城主の奥平貞能、貞昌父子が家康方に帰順するという噂が立つ。

 甲州から応援に駆けつけた信豊(信玄の甥)は噂を耳にはさみ、さっそく、貞能を陣中に呼びつけて、ことの次第をただした。そのとき、貞能、すこしも騒がす、

 「それは敵方の放つデマでございましょう」

 と笑い飛ばし、いぶかる信豊に向って、

 「久し振りにお手合せを」と将棋の対戦を申し入れた。

 信豊はすっかり安心して、そこで床几に腰をかけて、ゆうゆう対局を行った。貞能は終盤で、わざとボカを演じて勝ちを譲った。終って二人は、昼食を共にした。

 貞能は、こうして信豊を信用させて、急いで城に引返した。それから日が暮れるのを待ち、ふいに本丸に鉄砲を打ちかけ、自らは一族男女、それに武具兵具あまさず持って徳川方に走ったという。

 この話は、『改正参河後風土記』に出ている。驚いたことに、碁のほうでは、これを碁の対戦とすることを知った。

 なるほど、原文には「棋を囲み」となっている。「棋」をただちに、囲碁と解する誤りは、すでに、「似たはなし」で書いた。

 現代語では、将棋の場合は、「指す」とか、「対局する」とか書いて、決して、「囲む」とは用いない。「囲む」というのは、専ら碁の用語となっている。『改正参河後風土記』に見える「囲む」を、現代的な感覚を以て解すれば、碁ということになり勝ちだ。

 ならば、一つの傍証をお見せしよう。

 『駿府記』の慶長十七年三月三日の条に、「本因坊算砂、宗桂法師と将棋を囲み」という文章がある。そのころは、碁も将棋も、対局することを「囲む」と書いた。従って、先述の「棋を囲み」を現代風に書き直せば、「盤を囲み」というほどの意味となろう。

 陣中で、信豊と貞能は将棋を指したのか、碁を打ったのか、ほんとうのところ、どちらでもいいと私は思っている。

 ついでながら、先に引用した『駿府記』の文章は、国立国会図書館の写本を見た限りでは、「宗桂法師」ではなく、「宗桂法印」となっている。その「法印」を持出して宗桂を位の高い人という説もあった。私は、写本の誤りと見て、「宗桂法師」と訂正した。

 将棋の始祖を無理に高貴の出とする必要はない。庶民の出であることに、むしろ私は誇りを感じている。

16 お茶の水の助役-2009.02.01-

 『江戸城物語』(朝日新聞刊)という本に、二代将軍秀忠は、「独眼竜」の伊達政宗と碁を囲み、政宗の放言をとらえて、お茶の水の助役を命じた、という話が紹介されている。

 出典を示さないので調べる方法はないが、表題について私の知るのは、肥前平戸藩主松浦静山の『甲子夜話』に載せる物語である。

 政宗は、家康を招いて自宅で碁会を催すほでに碁が好きであったし、将棋は自分でも指すほどに自信を持っていたらしい。戦国武将の例に洩れず、将棋と碁との両刀使いであった。

 『甲子夜話』では、登場者は三代将軍家光と政宗になっている。政宗は、家光とは将棋仲間であった。家光は、将軍職を継ぐとき、諸大名を集めて、「予は生れながらの将軍であるぞ」と大見栄を切って諸将をふるえ上がらせた。政宗も、お家大事とばかり、子供みたいに若い将軍に鞠躬如として仕えたが、こと将棋ともなれば、話は別であった。

 どうも、政宗は将棋を指すと、口三味線をひく癖があったらしい。癖なのか、老獪な老雄らしく、せめて盤に対するときは、将棋にかこつけて憂さを散じようとしたのか。家光も、将棋では老雄に一目おいていたようである。

 静山の物語を現代風に書き直して見る。

 —ある日、政宗は家光に招かれて将棋のお相手をした。毎度のことながら、局面は政宗に有利に展開した。政宗は得意になり、「それ、王様が危い、それ、王様が・・・」と例の通り毒舌を飛ばした。

 若い家光は渋い顔をし、政宗が一言発するたびに「待った」をした。しかし、その「待った」が数度に及んだとき、政宗はたまりかねて、「それでは御城の後から這入りましょうぞ」といった。家光は、その一言を耳にすると急に闘志を失い、「政宗、それでは、お茶の水の助役を命じたぞ」といい返して無念そうに駒を投じた・・・。

 政宗が、「城ノ後カラ這入ルゾ這入ルゾ」と、たびたび口に出したのは、将棋に託して日ごろの持論—江戸城の側背が敵の急襲に対して不備であることを進言したものである。戦国生き残りの老雄は、いつも江戸城を戦略の拠点として眺めていたらしい。

 静山は、「コノ言ヨリシテ彼ノ堀ノ助役ヲ政宗命ゼラレシト云」と結んでいる。

 もっとも、お茶の水の助役は、正しい歴史上の事実からすれば、政宗に対してではなくて、その孫の代になって命じられている。とすれば、『甲子夜話』の物語は、フィクションなのであろうか。

 あるいは、その助役を伊達家に命じ、政宗の孫の代になって取り掛ったものなのであろうか。

 『江戸城物語』では、二代将軍秀忠のこととして書き、『甲子夜話』では、三代将軍家光のこととされている。碁の対局の席であるのか、将棋の対局のことであるのか、それを詮索する必要はなさそうだ。

 『甲子夜話』は歴史書ではない。正邪は問うまい。ただ、将棋を主題とする物語が伝えられてきたことが、私には嬉しいのである。

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