57古将棋の謎とき -2012.07.01-

 日本将棋の創業は、正直のところ判らない。いま私は、文部省の研究助成金を受けて、「日本将棋の発生と発達」というテーマに取組んでいる。

 欲張りすぎたテーマだ、といわれるかも知れない。研究というよりは、いまのところ私にとっては謎解きという感が強い。

 謎解きの手がかりとしては、日本将棋の源流を二つにわけて考えて見たい。いまの将棋が創られた以前にあった将棋を「古将棋」と私は呼んでいる。その「古将棋」には、二つの流れがあって、二つの渓流が、いつ、どうして一本の大川にまとまったのか、それが、とんと判らない。『大象棋絹カ篩』(文政四年刊)その他の書物によると、古将棋は大別して、つぎの六種があった。

 (—将棋は象棋、象棊、象戯とも書くが、この頁では、特別の場合を除いて将棋と書く)

 小象棋(縦横各九目、駒四十六枚)
 中象棋(縦横各十二目、駒九十二枚)
 大象棋(縦横各十五目、駒百三十枚)
 大々象棋(縦横各十七目、駒百九十二枚)
 摩訶大々象棋(縦横各十九目、駒百九十二枚)
 泰象棋(縦横各二十五目、駒三百五十四枚)

 将棋は、八世紀ごろ、中国から伝えられたという。口伝だけで、その事実を示すものはない。中国から伝えられたことは間違いないが、いまの中国将棋ではない。中国でも古将棋に属する唐時代の将棋ではなかったろうか。

 その唐時代の将棋を見て、日本流に焼き直したのが、六種ではないか、という気がする。駒の文字から見ても、いかにも日本的である。その点は、すでに幸田露伴が『将棋雑考』で指摘している。

 六種は、古い棋書に駒の性能が解説してある。旧財閥の三井家では、古い棋書を見て、古将棋の盤と駒を作らせてある。六種のうち、指し方が判るのは中将棋だけである。

 ということは、何を物語るのであろうか。

 結論を先にすれば、六種のうち、実際に行われたのは、大・中・小将棋で、他の三種は、好事家が創っては見たものの煩瑣にすぎて流行しなかったのではないか。

 文献の上でも、大・中・小将棋のほかの種類は見えない。創られた順序も、大・中・小将棋の順であったと思われる。(—古将棋六種の存在を示す資料は、天正二十年に水無瀬兼成が筆写した『象戯纂図部類抄』で、比較的新しいものである)

 大・中・小将棋のうち、大将棋は、中将棋におされて消えて行った。小将棋は、いまの将棋が誕生する直前のもので、いまの将棋におされて消えてしまい、指し方すら伝わっていない—私はそうした謎解きをする。

 ただ、「朝倉駒」の出土によって、小将棋には「酔象」と「猛豹」を持つ四十六枚と、「酔象」のみを持つ四十二枚の二種があったことが考えられるようになり、
大—中—小(A)—小(B)
の道順を経て、いまの将棋が誕生した。そういう推理を私は、してみたくなった。

 もう一つ、日本将棋には別の源流があった。

58古将棋の文献 -2012.08.01-

 古い棋書に示される「古将棋」六種のほかに、日本には、もう一つの将棋があった。

 言語学者で将棋愛好家であった故金田一京助博士は、前田家蔵本の『二中歴』のなかで、すでに平安時代、日本人の手になる「将棋」(駒三十六枚)と「大将棋」(駒六十八枚)があったことを発見した。

 『二中歴』をひもとけば、なるほど、その通りである。私は六種の「古将棋」と区別して、「平安将棋」と呼んでいる。

 そのほうの「将棋」は、盤は各七目で、いまの将棋に飛車と角がないだけである。ある意味では、いまの将棋の原型ともいえるだろう。そこで私は悩んでしまう。「平安将棋」と「古将棋」は、いつ、どのようにして交流があったのか。ついに他人付合いに終って、いまに資料だけを伝えるものなのか。

 たぶん、「古将棋」は、「平安将棋」を下敷として考案されたものではないか。たぶん、「平安将棋」は単純なゲームであっただろう。それに不満を感じて、いろいろと手を加えて「古将棋」を創ったのではなかろうか。

 「鳥獣戯画」に、対局図がある。戯画であるから、正確なことは判らないが、盤面は七目となっている。「古将棋」が誕生してのちは、単純な「平安将棋」は、将棋遊びとして庶民の手に渡ったのではないか。

 それが、私の謎解きである。

 文献の上から、もう一度、「古将棋」を調べ直して見よう。将棋史研究という立場からすれば、文献の裏づけのないものは、謎解きの遊びは別として、私は採らないこととする。

 保元の乱の発頭人である左大臣、藤原頼長の日記『台記』の康治元年(一一四二)九月十二日の条に、頼長が崇徳上皇の御前で、師仲朝臣と「大将棋」を指して負けた、と書いてある。

 将棋が文献にあらわれた初見である。

 鎌倉時代になると、歌人で聞える藤原定家の日記『明月記』の建歴三年(一二一三)四月二十七日の条に、宮中で盛んに将棋が催されていたことが見える。文面から見て、駒数百三十枚の「大将棋」であったと思われる。

 「古将棋」が、大・中・小の順に創られたというのは、大将棋の文献が一番古く、そのあとに、中将棋があらわれ、つぎに、小将棋の記述が始るからである。

 中将棋のことは、文明八年(一四七六)の擬軍記『鴉鷺合戦物語』に登場することは、前に書いた。史料としては、室町幕府の歴史を綴った『花営三代記』(花営は室町幕府の美称)によれば、応永三十一年(一四二四)正月二日と三日に、前将軍義持の御前で、大館元行と貞弥とが将棋を指して、「奔王ヲ出テ勝」と書いてある。将棋の種類は明記しないが、時代的に見て、中将棋と解していいだろう。

 小将棋は『看聞御記』の永享七年(一四三五)八月二十二日の条に、初めて出てくる。すこし時代が下って、『言継卿記』の大永七年(一五二七)七月二十八日の条にも見える。

 先の小将棋は、いまの将棋をいうか、その前の段階の「小象棋」をさすのか、断定はむずかしい。『言継卿記』の記述は、いまの将棋と断定して差支えないと思う。

 千四百年代、室町時代には、いまの将棋が誕生していたことは明白だからである。

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