65駒の銘 -2013.4.01-

 駒の書体は、行書が一番多い。つぎが、楷書で、草書、篆書、隷書の順となっている。

 駒の文字のことは、江戸時代は「銘」といった。いまは、駒師のあいだでも、単に「駒の文字」と呼ぶ習しとなっている。

 古くから知られるのは「水無瀬」である。水無瀬家が駒の銘を書くに至った事情は、

 —水無瀬殿の一代に実子なし、称名院の子を養う、それが氏成(後に是空といふ)の親なり、入道して慈旨と云ふ。これが秀次公の出頭にて手跡もよく、地下人にかかせんよりはましとて、この人に将棋の馬の書付を御申附なり、それより家のやうになるなり・・・。

 黒川道祐の『遠碧軒記』に、そう書いてある。江戸時代の諸書にも、そのことが見える。以来、「駒の銘を書く家柄」として、記録で見る限りでは、江戸後期までその任に当ってきた。

 大阪府下の水無瀬神宮には、「古将棋之図」とともに、水無瀬駒を伝える。中将棋の駒であって、駒箱には、「兼成ノ筆」とあり、玉将駒の底部には、「八十二歳」と書いてある。

 水無瀬駒は、楷書に近い行書体であって、何ともいい現し難い気品が漂う。いまも、高級駒として愛用されている。

 つぎに古いのは、後水尾天皇の銘である。徳川二代将軍秀忠、三代家光のころの天皇で、能書の誉れ高く、その宸筆は数多く残っている。寛永六年(一六二九)十一月、幕府の専横を怒られて明正天皇(女帝)に譲位された方である。

 その宸筆の銘は「錦旗」と名づけられ、水無瀬駒と同様に、高級駒の代名詞ともなっている。

 江戸後期に入ると、源兵衛清安(伝不詳)が登場、さらに、金竜、真竜(伝不詳)、清安(伝不詳。源兵衛清安とは別人で、太字を得意とする)、巻菱湖(書家、天保四年没)といった能書の人が銘を書いた。

 松本薫斎は、明治三年に没しているので、やはり、幕末に銘を書いた人である。森鴎外の史伝『細木香以』には、香以の子供は、「筆札を松本薫斎に学び」と書いている。

 薫斎の長男で、五段にまで昇った薫仙も銘を書いた。瀬戸物町に住んでいたことは、明治二十年の『武総将棋手相鑑』で知れるが、経歴は明らかでない。

 三味線ひきとして、東京から所々の芝小屋に出ていた昇竜斎も、雅味豊かな銘を残している。

 ほかに、明治から大正にかけて、鰭崎英明(浮世絵師)、小野鵞堂(平仮名の大家。銘は、表は行書体に近く、裏は草書)、三田玉枝(書家、銘は篆書)、淇洲(酒田の竹内丑松)、英歩(堀川英歩五段)、篁輝(伝不詳)などが知られる。

 三邨、長禄、無剣、玉舟、山華石、清定、深山という人たちの銘もある。

 専門棋士では、十三世名人関根金次郎の銘が知られる。近ごろは、若き名人中原誠と大山康晴名人の銘を刻んだ彫駒が市販に供せられている。

 若き名人中原の書は、自然の風格が備わる。大山の銘は、珍しく略字を用い、裏は朱を用いてある。常に新しさを求める人らしく、大胆にして嶄新な試みであると感心した。

66錦旗駒後日譚 -2013.5.01-

 若き日、関根金次郎は修行の旅に出て、酒田の竹内丑松の家に立寄った。山海の珍味でもてなしを受け、程よく酔いが廻ったころ、

 「実は、向いの山の見えるほうで馳走に預りたいと存じまして・・・」

 向いは廓である。初対面の若者の申し出に丑松は驚いたが、望み通りに案内を立てて廓に出向かせた。

 つぎの朝、戻ってきて、それからは別人のように将棋三昧である。盤に対すれば、石のごとく身じろぎもせず、凛とした対局姿は四辺を圧するようであった。

 旬日に及ぶ滞在ののち、辞去する若者を自室に呼入れて、丑松は一組の駒を取出した。

 「大橋本家重宝の駒を模して作らせたものです。有為の者に与えよと先代からのいい伝えでございます」

 関根こそ、「その有為の者」に値すると丑松は見抜いた。喜んで関根は受け、駒に「錦旗」と命名した。その駒を用いて対局すれば連戦連勝、関根はついに八段の高位をきわめ、十三世名人の印綬を帯びるに至った。

 関根金次郎は、自伝『棋道半世紀』のなかで、そう書いて丑松の遺徳をしのんでいる。

 錦旗駒は、後水尾天皇宸筆の銘を模したものである。その駒は、大正の代になって十二世名人小野五平を通じて、旧黒田候爵家に渡った。黒田家から、駒師の豊島太郎吉に筆写の依頼があった。

 戦前の天皇制のもとでは、仮初にも天皇の御名を駒に刻むことは許されなかった。知恵をしぼった豊島氏は、それに「錦旗」と名づけて、のちには自らも製作して売出した。

 後日譚がある。

 戦前、駒師として豊島氏と技を競った奥野氏は、錦旗駒の人気に追随しようと自らも錦旗駒の製作を思い立った。困ったことに、錦旗の銘は豊島氏が蔵している。いまなら、写真技術が発達して模写も簡単にできる。そのころは、模写する技術も思い浮ばなかった。

 そこで豊島氏は、ひそかに、錦旗に似た銘をさがし求めた。三味線ひきの昇竜斎の銘がそれに近く、銘も雅味が横溢する。昇竜斎は、駒の銘を書く人としては無名であったから、奥野氏は、それを借用した。

 以上の話は、昇竜斎にゆかりのある老人からきいた。真相は、定かでない。ただ、いま市場に出廻っている「錦旗駒」を仔細に調べて見れば、なるほど、二つの異った書体がある。錦旗駒は、二種類が世に出たことだけは事実である。一つは、偽せ物であることは間違いあるまい。

 世に伝えるものにも、偽せ物が多いときく。「伝秀次愛用の駒」も、江戸後期の清安の書体とそっくりである。どちらかが、間違っているのであろうか。

 二、三年前、ある無名の駒師から、「錦旗」の駒の新作ができたから要らないか、と問合せがあった。偶然、先代が保存していた黄楊材が出てきたので、製作したという。出向いて見れば、黄楊の材質は、さすがにすばらしい柾目である。ただ、錦旗の銘は私の記憶と異っているように思えた。それをいうと、

 「あッ、間違えたらしいや」

 駒師の慌てようが私には可笑しかった。

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