97史上最年少 -2016.3.01-

 戦国時代、薩摩あたりの武家のあいだで、盛んに将棋が指されたという記録がある。九州と将棋とのつながりは古く、深い。しかし、九州人が華々しく将棋史に登場するのは、七代将軍家継の代になってからである。

 正徳三年(1713)、二代伊藤宗印を名乗って五世名人の印授を帯びた鶴田幻庵は、肥前の国、唐津の人である。幻庵は前名。幼少のころから伊藤家に養われ、数ある門下のなかから選ばれて名人となった。

 幻庵すなわち二代宗印は努力家で、生涯に詰将棋二百題を作った。そのころにあって、二百題の作図は難事業であったらしく、十一世名人・八代伊藤宗印は、「一世に二百番作れるものは古よりいと稀なり」と惜しみなく讃辞を呈している。

 一つの著作は、『象戯図式』(元禄十三年刊)、他は『将棋精妙』(刊行年不詳)という。前著は将棋所(名人)となるとき、慣例によって幕府に献じたもので、大学頭林信充(復軒)の序が付してある。信充は、「方今宗印その法を継ぎその業を述ぶ。即ち先祖の伝うるところ、子孫の受くるところ、長じてその印あるか」とその名を由来を書いている。

 後者は、『成らず百番』とも呼ばれ、百番の作図がすべて飛、角、歩を「不成」としなければ詰まぬという画期的な構図である。

 宗印は子宝に恵まれ、史上最年少の二十三歳で七世名人となった宗看は、その次子である。宗看とともに詰将棋の大天才とうたわれる看寿(贈名人)は五男。いずれも、つぎの享保時代の立役者となった。

 将棋三家のなかで、伊東家は嫡男が愚鈍なら、嫡男を廃して門下の逸材を登用した。その後も伊東家が栄えたのは、新しい血を入れる英断があったからであろう。同じころ、一世を風靡した盲人棋客の石田倹校も肥前の人。伝は欠くが、元禄から宝永にかけて活躍した。「石田囲い」の創始者といえば、どなたも御存知の名前である。

 下って幕末のころ、深野宇衛が出た。筑前久留米の人で、帯屋宇兵衛とも呼ばれ、棋級は六段に昇った。あるとき、七段を望んで江戸に下ったが、その望みは達せられなかったという。

 時の実力者で、将棋家を捨てて野に下った変り者の大橋柳雪と、しばしば、手合せをした。『将棋営中日記』に、「上方にて深野宇兵衛と香車平手交にて指したるに、香車落は柳雪多く負け候由」という記録がある。柳雪に香車落で勝ったというのは、民間棋客としては並々ならぬ棋力の持主である。

 明治の代になっても、有力棋客が九州棋界を賑わせた。十三世名人関根金次郎の話によれば、小坂宝仙(熊本、五段で医師)、中原織右衛門(福岡、五段)、坂東伊兵衛(博多、五段)、島田四郎(博多、五段)、谷口豊吉(宮崎、六段)と続出したが、中央進出は成らず、ついに地方棋客に終ってしまった。

 戦後、福岡から、加藤一二三九段が出て、再び、九州は注目の地となった。四段から毎年昇段して、史上最年少の十八歳でA級八段に昇った。恐らく、これからも、だれもが破ることのできぬ大記録となるだろう。十段位も手にした。熱心なカソリック教徒で、パウロの洗礼名を持つ。

 もう一人、前田祐司五段というスケールの大きな棋士が出て、昇段街道を驀進中である。

 江戸時代のごとく、九州から名人が出るのは、いつのことであろうか。

 [後記]現代では、中原誠の二十四歳、名人が新記録である。

98少年時代の修業 -2016.4.01-

 新聞の「こども」の頁に、「修業」と題して棋士の少年時代のことを書いた。少年向けなので、文章はやさしくした。

 将棋の棋士は、少年のころから将棋の勉強をつづけています。升田幸三九段や大山康晴名人もそうですし、十八で八段になった加藤一二三九段も十一のときに先生につきました。

 升田少年が大阪の木見先生に弟子入りしたのは、十五の年でした。「名人に香車を引いて勝つまでは帰りません」とお母さんの物さしの裏に書き残して家を出たそうです。それから三年おくれて、十三歳の大山少年が同じ木見門に入門した。このとき、先輩の升田が大山に試験将棋を指しましたが、三番とも升田が勝ちました。

 棋士は入門しても、先生から手をとって教えられることはなく、たがいに研究し合って強くなります。升田は新弟子の大山に毎日のように、けいこをつけましたので、大山はぐんぐん強くなりました。が、強くなると二人は昇段を争う仲となりました。兄弟弟子といっても、段が上になるためには、たがいに負けられないのです。

 升田は子どものころは剣道家になるのが志望で、将棋さしになるつもりはありませんでした。兄さんが将棋が好きで無理やり相手をさせられているうちに、いつの間にか強くなってしまったそうです。大山は近所の床屋で、おとなたちが指しているのを見て将棋をおぼえました。

 皆さんは「目かくし」将棋という言葉を知っているでしょう。盤やコマを使わないで、7六歩とか8四歩とか、頭の中でコマを動かしながら指してゆくやり方です。升田や大山は、その「目かくし将棋」で一度に三人ぐらいを相手にできるそうです。頭の中のスクリーンにはっきり盤面がうつるから、こんなことがやれるわけです。頭の中でどれだけ正確にコマを動かせるかが、一流棋士になれるかどうかのわかれ目でもあるようです。

 升田九段の少年時代に、こんな話があります。ある秋の夕暮れのこと、空を渡る鳥の一群を見て、升田と兄さんが何羽いるか、あてっこをしました。兄さんの方は顔を上にむけて一羽一羽と数えましたが、鳥は動くのでゴチャゴチャになって、なかなか数えられません。ところが升田は、ちらっと見ただけの頭の中のフィルムに鳥の姿が焼きついてしまうので、正確に数をいいあてることができました。

 升田は入門して十五年目に、大山は十三年目に八段になりました。が、名人になったのは後輩の大山がさきでした。後輩にさきをこされた升田はくやしがって、いなかに帰り百姓をしようとまで思いつめましたが、ファンにはげまされてがんばり、とうとう大山から名人を奪いとりました。

 升田は名人・九段・王将と三つのタイトルを一人でとりました。大山も名人・十段・王将・王位・棋聖と五つのタイトルを一人でとりました。二人は「ライバル」とよばれる中で、たがいに研究をして大記録を作りました。

 升田は攻めが強く、新しい方法を発見していく天才です。大山は受けが得意です。悪い手を指してもあわてないこと、自分の指した将棋をあとで研究するなどを実行したので強くなりました。

 二人は天才といわれます。同時に二人は努力する人です。努力するので強くなりました。

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