Q13 正倉院に棋具が11点も現存?-2007.08.01-

「木画紫檀棊局」

 シルクロードの終着点である奈良の正倉院に、国宝の碁盤や碁石などが一二〇〇年もの長い間、大切に保存されてきたことを知っている囲碁ファンは多くいないと思います。「木画紫檀棊局」と名付けられた華麗な碁盤が人気度でベスト5に入るということまで知っている人は、もっと少ないでしょう。

 その他の棋具は別表のとおりですが、「桑木木画棊局」の二面は、おそらく和製であろうと言われております。見るからに日本製を思わせる渋い?造りなのです。

 上図の碁盤に「17花点」あるのがわかりますか?すなわち百済の「事前置石法」の碁法を示す碁盤。

 右の表は、聖武天皇愛用の棋具一覧表。※印は百済の義慈王から藤原鎌足への贈り物でした。

正倉院の棋具一覧(国宝)

Q14 皇室と囲碁の物語は?-2007.09.01-

 「皇室と囲碁」の関係については、古来より密接に結びついていた、と断言できます。前記の正倉院宝物の棋具類の存在が何よりの証拠です。

 これより三、四世紀さかのぼれば、すでに大和朝廷は朝鮮半島、とくに百済王朝との交接を通して、あらゆる文化の摂取につとめてきましたし、一方、中国の王朝(晋・宋・斉・梁・隋・唐)との交流も活発で、むろん、囲碁外交も盛んでした。

 国内における天皇と囲碁の記述は、『水鏡』にはじめて表れます。光仁天皇(在位七七〇〜七八一)がひょんなことから、井上の后と美男、美女を賭けて碁を打つ場面が描かれています。これより四十年後、仁明天皇(在位八三三〜八五〇)の時代、皇室における”囲碁の催し”が活発になります。『続日本後紀』に「天長十年三月、天皇紫宸殿に御し、群臣に酒を賜り、囲碁の興あり。終わって親王以下に御衣を賜り、各差有り」と書かれ、これより数年間にわたり同様の記事が見られます。紫宸殿はまるで囲碁サロンの趣を呈していました。醍醐天皇の時代も同じような催しが何年もつづきました。

Q15 「学問の神様」が碁を打った?-2007.10.01-

菅原道真

 「学問の神様」として有名な菅原道真(八四八−九〇三)は囲碁の詩を四つ書いています。

 一死一生争道頻 一死一生道を争うこと頻なり

 手談厭却口談人 手談 厭却す口談の人

 殷勤不懐相嘲哢 殷勤に懐ぢず相嘲哢することを

 漫説當家有積薪 漫しく説く 当家に積薪ありと

 二八歳のときの詩ですが、「手談」「積薪」(中国の名手)など、中国の古典にも詳しいことが分かります。やがて、さまざまな官職をのぼりつめ位人臣をきわめましたが、絶頂期に政敵らの陰謀によって大宰府へ左遷されました。後年、遺跡から数百個もの碁石が出土しましたが、道真が悶々として過ごした日々を慰めた碁石だったのかも知れません。

Q16 古代の名手はどんな人?-2007.10.01-

変化の佳人と対局する寛蓮

 さきごろ一大ブームをもたらした「ヒカルの碁」に登場する「左為」は、平安期の名手だったいという設定でしたが、その当時、遣唐使の一員として弁正という僧侶が入唐したさい玄宗(まだ皇太子だった)に召されて碁を打った話とか、伴宿弥少勝雄および十余歳だった紀夏井が、碁師として唐に渡った記述が見られます。

 宇多、醍醐両天皇に囲碁をもって仕えた寛蓮(俗名・橘良利)は、日本初の「碁聖」の称号がある殿上人。醍醐帝(寛蓮に二子のハンディ)と賭碁のエピソードがあり、また、帝の勅命で日本初の『碁式』(原書は不明)という啓蒙書を献上しています。

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