69天童の大衆駒 -2013.9.01-

 天竜駒は、大衆駒の名で知れわたる。昔風にいえば、番太郎駒である。全国で使われる駒の九五パーセントを天童市が占め、残りの五パーセントは大阪で作られるという。

 幕末、織田藩二万石の用人、吉田大八は下級武士の困窮を救おうと書き駒の内職を授けた。製作された駒は江戸に運び、藩の江戸留守居役が売捌きを斡旋していたらしい。

 吉田大八は勤皇派に属し、ついに維新戦争で倒れるが、駒作りの業は、衰えることを知らなかった。ことに維新後は、禄をはなれた下級武士は生活のために駒作りに専念し、やがて町人たちも加って、天童は駒の産地としての地歩を確立した。

 そのころは、むろん、ウルシの手書きであった。ナタ一丁で、原木から駒を作って磨き上げ、それに黒いウルシで銘を書く。書き手は、少年のころから書を仕込まれ、歩から香、桂、銀、金、角、飛、玉と書きこなして、初めて一人前の書き手というわけであった。

 それが、いつごろからか機械化される運命を背負うようになってきた。

 俗に軍人駒と呼ばれる行軍駒が、一世を風靡した時代がある。日清・日露・第一次世界大戦と、軍国主義のなかで日本の経済は膨張して行った。世相を映して、明治二十年代に軍人将棋というものが流行した。駒は、ゴム印でぽんぽん捺して作ればよい。材料の吟味も必要がなく、それは粗悪としかいいようのない代物であった。

 その軍人駒がきっかけで、ウルシの書き駒は、ゴム判の将棋駒に姿を変えてしまった。

 機械化され、簡略化されると、駒は粗悪になるばかりであった。なかで、そうした風靡を憂えて、手書き駒の復活を呼びかける声も挙った。さる翁は伝来の行書の銘を隷書に改めて、頑として彫駒ばかりを作っていた。その流儀を「大和彫」と呼んだが、大量生産の世に受けいれられず、翁一代の努力は空しく終った。

 そういた孤高の駒師も天童にはいた。いつか、その町を訪れて、不遇のうちに世を去った駒師のことを調べて見たいと思う。

 駒の産地天童は、きくところによれば、観光地天童に衣替えをするために、あらゆるものを将棋駒に結びつけて宣伝にこれつとめるという。

 菓子も駒形を模し、温泉郷では王将風呂を作り、民芸品としては将棋コケシを製作して売出した。ただ、郷土玩具としてのコケシは、原始的ともいえる木偶と胴体に生命があるところから、将棋駒をあしらった将棋コケシは魅力に乏しいと嘆く人もいる、ときいた。

 天童は、また桜の名所である。いつごろからか、毎年、春の将棋祭に、人間将棋を催すようになった。公園の広場に石灰で盤を描き、駒を傘形に作り、別室で対局する指手どおりに、温泉郷のきれいどころがそれを動かして観光客の目を愉しませる。

 太閤秀吉が発案したあの人間将棋である。いい伝えによれば、さる分限者が秀吉の故事を真似て人間将棋を試みた。それに目をつけて、観光宣伝の行事として売出したという。

 近ごろは、高級駒も作られるようになってきた。そうした駒師の存在も忘れられるほどに、大衆駒の産地として、人間将棋の興行地として、天童市の名は全国津々浦々にひびきわたっている。

 —孤高に生きたかの老駒師は、地下で、この盛業をどう見るのであろうか。

70将棋盤の歴史 -2013.11.01-

 古将棋の盤は、途方もなく大きい。駒数が多いのだから、当然である。中将棋は、縦横各十二目だし、泰将棋は二十五目、十代将軍家治のころに試みられた「七国将棋」に至っては、盤の大きさは実に三間四方もあり、腰を掛けて杖のような竹で指すと『当世武野俗談』は伝える。

 盤の定寸法は、享保二年(一七一七)刊の『大匠雛形』に示すものが、一番古い記述である。

 大将棋は、「横一尺六寸で目数は十五間に割り、縦は目一つ長くして十五間にし、厚さは二寸六分、足の高さ三寸六分、太さ二寸六分、足は目一つ入れて付ける」と規定する。

 中将棋は、「横一尺四寸、十二間に割り、長さは一目長くして十二間に割り、厚さ二寸二分、足の高さ二寸八分、太さ一寸八分、足の入りは八分」と規定する。

 小将棋は、「縦一尺二寸九分で九目に割り、横は一目狭くして九ツ目にし、厚さ一寸八分」と規定する。

 『大匠雛形』は、横のことを「広さ」、縦のことを「長さ」とも書いてある。

 これで見ると、江戸時代の盤は質素に作られていたことが知れる。現に、江戸時代のものとして知られる盤は、現在の豪華な盤にくらべては、甚だ貧弱で見劣りがする。

 のちに、徳川幕府の将棋所で定めた定寸法は、縦一尺八寸、横一尺八分、厚さ三寸八分、足高三寸となっている。そういえば、御城将棋に用いた盤は、だいたい、上記の寸法に合っている。

 現在、盤師のあいだでは、
 縦 一尺二寸(36.3センチ)
 横 一尺一寸(33.3センチ)
 足高 三寸(9.1センチ)

 と定め、これを「本寸盤」と呼んでいる。江戸時代の盤よりは、心もち大振りになっている。

 駒師の系譜が明らかでないように、盤師の系譜もつまびらかでない。江戸時代で名の知れるのは、南伝馬町の症九郎、通乗物町の清左衛門、新両替町の加兵衛である。名を留めるだけで、経歴は不詳。

 古棋書によれば、京都の「かき町五条上ル東側」に、「盤駒細工所」として、三原屋忠兵衛が店を構えていた。将棋が盛んになるにつれ、江戸や京・大阪にも、もっと盤師がいたと思われるが、記録に残っていない。

 囲碁史の史料を借りると、幕末、幕府御用碁盤師として名のあったのは、神田鍛冶町に住んだ福井一得であったという。

 その後は、明治十年代までは、東京で三人の盤師が技を競ったといわれる。そのうちの一人は、芝源助町に住んだ青柳初太郎。その人の流れを組むのが前沢氏である。

 盤師のあいだでは、先代の前沢氏は名人芸の持主と定評があった。先代の前沢氏が作った盤はは、だれでも口を揃えて、
 「ひびきがよく、狂いが生せず、一点の日の打ちどころもない名品でした」
 職人の誇りに生き、大金を積まれても首を縦に振らなかった。その代り、将棋好き、碁好きの人の頼みには、慾得を棄てて製作に没頭したという。

 [後記]盤の手入れ・保存法
 手入れ 第一に、から拭き。ほこりが溜ると盤の目に入って拭いても取れなくなってしまう。
 第二に、椿油で拭いて汚れを取る。純粋な椿油がないときは、純粋な天ぷら油を用いる。
 保存法 第一に、しょっちゅう使う。素人考えで大事に仕舞うのがよいと思い勝ちだが、保存法としては下の下。第二に、湿気、乾燥、直射日光を避ける。
 要は、いかに盤を愛するか、心の持ち方であるという。

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