3 朝倉駒由来記-2008.01.01-

 昭和四十九年十月二十五日、福井県城戸の内で発掘調査をつづける「朝倉氏遺跡」を見学した。天正元年(一五七三)八月、織田信長に攻められて滅亡した朝倉義景の館跡は、四百年の深い眠りから醒めて、つぎつぎにその宏大な遺溝を再現しつつあった。

 遺跡からは、予期しないほどに大量の遺物が出土した。遺物は北側の外濠、暗渠近くの暗灰褐色有機質粘土層から灰褐色砂利混り有機土質層までの有機質土層から出土した。土塁から約六・四メートル、現在の地表からは三・四メートルの深さである。

 簡単に申せば、暗渠近くの粘土のなかに埋まっていた。だから、土器、金属器、自然木、植物の種子、貝殻などに混って、五百点以上の木製品が、「奇跡的ですよね」といわれるほどに保存のよい状態で出土した。

 木製品のうち、墨書のあるものは百八十点に達し、永禄三年、同四年五月吉日、同十年正月十三日の日付が見える。また、「少将」の付札は義景の愛妾である「小少将」であろうと見解が一致した。

 そうしたことから、この居館は五代目城主義景の館跡と断定し、遺物の下限を永禄十年(一五六七)におくのが妥当、と発掘に当った「朝倉氏遺跡調査研究所」の河原純之所長は、考古学者の立場から推論した。

 一乗谷は地理的にも京都に近い。朝倉氏は室町幕府の足利氏とも親交があって、その遺物から見ても、当時としては、かなり高い文化水準を保っていたことが知れる。私個人としては、土器とか、木製品のなかでも木櫛、曲物、人形、玩具などにも興味を覚えたが、この地を訪れたのは、文部省の科学研究費による調査旅行であったから、目的とする将棋駒の調査に大半の時間を充当した。

 将棋駒は九十八枚あった。内訳は玉将一、王将二、飛車三、角行十、金将八、銀将八、桂馬八、香車八、歩兵二十九、酔象一、墨書不明二十である。角行が十枚ということは、すくなくとも五組の駒があったことは確実である。その駒を私は「朝倉駒」と名づけることとした。(-その後、計百七十七枚の駒が出土した)

 駒の大きさは一定しないが、玉将、王将、飛車、角行の大駒と、金将、銀将、桂馬は大きく、香車と歩兵は細長く作ってある。材質は檜である。

 駒の寸法は(以下cmで示す。高さ、上部の幅、下部の幅、厚さの順)
 玉将・・・・・・4.0×2.8 3.6×0.2
 飛車・・・・・・3.7×2.9 3.9×0.1
 角行・・・・・・3.5×2.6 3.0×0.2
 金将・・・・・・3.5×2.5 3.0×0.3
 銀将・・・・・・3.4×2.4 2.9×0.15
 桂馬・・・・・・2.85×2.0 2.7×0.25
 香車・・・・・・3.8×1.3 2.2×0.25
 歩兵・・・・・・4.3×1.2 1.9×0.2

 右の寸法は、ほんの一例である。どの駒も高さや厚さに差異があって不揃である。ただ、注目したいのは、香車と歩兵は、いずれも幅は2cm以内で極端に細く作られている。

 身分制度のやかましい時代のことである。香車と歩兵は「雑兵」という考えから、わざと他より劣るように作ったのであろうか。

 『後記』昭和五十一年の秋、京都・上久世遺跡から南北朝時代の「酔象駒」一枚が出土した。「上久世駒」と名づけ、現存する最古の駒である。

4 朝倉駒の謎-2008.02.01-

 朝倉駒が出土したとき、福井市に支局をおく新聞社から、取材の電話がかかってきた。「珍しい駒が出たんですよ。将棋の歴史を書きかえる必要はありませんか」

 どの新聞社も同じことを質問し、どの記者も興奮していることは受話器にひびく声の調子でぴんときた。新聞記者の経験がある私には、記者の気持も理解できた。すでに彼等は、歴史は書きかえられるものと信じこみ、その裏付けを私に求めているようでもあった。

 一枚の酔象駒は、古将棋にある駒であることは現地でも解釈が一致していた。問題は、「いまの将棋にないもので、しかも、判読も困難な駒の銘」という点である。説明を受けたが、どうにも決断がつきかねた。

 こんど現地を訪ねて、件の駒は半分に割れたものであったり、墨書が不鮮明であることを忘れ、空想をたくましゅうして「勝手な読み方」をしたものであることが判った。

 駒は、一枚の酔象駒を除いては、すべて現行の将棋駒である。その後に出土した駒も、すべて現行のものである。

 彫り駒が混っているという話もあった。よくよく見れば、墨書した文字が消えるのを恐れて、つれづれに小刀で文字をなぞったものであるらしかった。

 出土した木製品のうち、木櫛は黄楊材である。曲物は檜のへぎ板をまるめて、その身を作ってある。人形も檜材だ。下駄は檜板に、杉材を二つ割りにして角釘で打ちつけて歯としている。付札も檜で作られていた。

 将棋駒は檜材である。出土したときの新聞報道は、材質を檜と書いていた。それにしては、なぜに薄いのかと疑念を抱いたが、いま大事にホルマリン液にひたして保存される朝倉駒を手にとって、檜材といっても、すべて曲物を利用していて、いまでいう廃物利用であることが判った。

 曲物は、塩漬うにのような海の珍味を入れたものと推定される。館の主が舌鼓をうち、あるいは室町殿に献じたのであろうか。館を取巻く下級武士の食膳には、恐らくは上らなかったものであろう。

 その曲物を利して駒を作り、銘を墨書した。駒が大形であるのに比して、厚さが不釣合いなほど薄い謎も、これで解けた。書体は驚くほどに達筆なものと、金釘流とがある。

 朝倉氏は文化水準が高く、上級武士はむろんのこと、庄屋くらいになれば、充分に読み書きはできたという。

 陣中のつれづれに、武士たちは廃物の曲物を利用して駒を作り、番小屋とか、馬屋の板敷きの間で勝負を愉しんだのであろう。盤も板盤か、もっと手軽に紙に枡目を書いて盤の代用としたものであろうか。

 そのころ、自由に他国領を往来できるのは、連歌師であった。記録には残らぬが、「将棋衆」もフリーパスで越前の国を旅したのではなかろうか。

 出土した駒のなかに、酔象の駒が残ることは、古将棋の存在を示す確かな証言である。ただ、文献的に見れば、もうそのころは現行の将棋が主流をなしていた。朝倉駒は、歴史の空白を埋めるさまざまな暗示を与えたが、現地調査の結果、いま将棋史は書きかえる必要のないことを私は確信した。

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