101公卿の位倒れ -2016.7.01-

 将棋で位取りは大切な要素である。位を取れば、それを守ることも同じように大切な技術である。ことに戦前までは、中央の位を「天王山」といって重視し、5筋の位を取らぬと、「破門するぞ」とこっぴどく師匠から叱られたという。

 「公卿の位倒れ」という格言がある。いつごろ、将棋の格言として取入れられたものか。江戸時代の「食倒」から転じたものか。とすれば、明治になってからの用語のような気もする。

 権大納言山科言継のことを、私はそう呼ぶのではない。むしろ逆で、将棋史を研究する者にとって、『言継卿記』は大切な、良質の史料である。

 日記は、大永7年(1527)から、永禄9年(1566)までの40年にわたり、禁中のことや、当時の世相を生々しく伝える。殿上人が毎日のように囲碁・将棋・双六・弓などに興じていたことも書いてある。

 —大永七年七月廿七日壬寅、九時分ヨリ四条亜相資直卿来候て、暮々迄小将棊候、十一月廿二日丙申、柳原罷候て御添番之事申候、又小象戯五バンサシ候、四バン勝候

 大永7年は、後奈良天皇の代である。たぶん、日記に見える「小将棊」は、いまの将棋であったろう。天文年中、後奈良天皇は「酔象」の駒を除かせて、いまの将棋を作ったという伝えがある。「朝倉駒」の発掘で、その口伝も現実味を帯びてきた。ただ、「天文年中」というのは、どう見ても誤りで、それ以前に、いまの将棋は誕生していた。『言継卿記』は、そのことを証明する。

 —大永七年九月廿七日壬寅、四条中将来臨、中象戯三ばんサシ候了。

 —天文二年十一月廿五日癸亥、局務賢業朝臣暮ヨリ来、中将棊六盤サシ候也、夜八ツ時分迄指了。

 大永7年も、天文2年(1533)も、巷は戦乱の世である。庶民の苦をよそに、公卿たちは、将棋や碁の遊びに夢中になっていた。

 そうしたことはさしおいて、日記は私には有難い史料である。言継は、小将棋だけでなく、中将棋も堪能であった。小将棋が誕生したのちも、優雅な中将棋は公卿たちに愛されていたことが知れる。

 天文23年11月19日には、宮中で碁会があり、言継は4勝して「杉原紙20枚」を頂戴したことを日記に留めている。午後2時ごろ参内して、午後10時ごろ退出したらしい。

 天文23年11月といえば、尼子晴久が尼子国久を殺し(1日)、北条氏康が古河城を陥れ(7日)と史家が記すように、戦乱はますますひろがりつつあった。

 翌年は弘治と年号が変った。7月、甲越両軍は川中島で大激戦を演じ、10月、毛利元就は、厳島に陶晴賢を討った。

 その弘治元年に一世名人・初代大橋宗桂が生れ、やがて公卿の遊びであった将棋は、庶民の出である宗桂の手に移り、華やかに将棋史の幕があけられて行ったわけである。

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