19 成金-2009.05.01-

 西鶴の研究家として知られる暉峻康隆氏は、二十年ほど前に卑語を集めて『すらんぐ』という本を出版した。

 その節、将棋と碁とに関する頁で、いくつかの質問を受けた。すでに書いた「将棋倒し」とか「高飛車」は出典も明らかであるのに、最もポピュラーな「成金」については、必ずしも諸説は一致しなかった。そこで私は、明治時代の新聞や雑誌を操って、その語源を調べ直した。

 将棋の駒で、歩が成ったものが、「成金」である。「と金」ともいう。その「と」についても諸説はあったが、江戸初期の棋書によって、それは金という字の崩し字であることが判明した。

 江戸初期は、たんに「と」とか「と歩」と呼んでいた。「と歩」と書いて「きんふ」と読ませる例は、各務支考の俳文、『将棋の賦』に見える。なかなか当を得た呼称であると感心した。

 幕末になって、「成金」という用語が定着した。式亭三馬は滑稽本、『浮世風呂』で、「ハハア、惜しい。成金を取られたかい」と書いている。そのころは、純然たる将棋用語として通用していた。

 成金の用語が「株成金」とか「成金者」として日常語化されたのは、日露戦争直後のことである。そのころ、政府資金の撒布と外資の導入とによって、日本経済はにわかに「高度成長」の波に乗り初めていた。

 株価が沸騰した。鐘紡株は一年余りで倍近くにはね上った。その上げ潮に乗って、鐘紡株を買いまくって巨万の財を成したのが、「鈴久」こと鈴木久五郎であった。

 明治三十九年の春には、当時の金で資産三百五十万円を築き上げていたという。

 その鈴久を世人は「成金者」と呼んだ。江戸時代の「大尽」と同じく、にわか分限者らしい逸話が新聞紙上をにぎわした。時事漫画に、料亭を出ようとする鈴久が、女中が差出す手燭が遅いので、マッチで札束に火を点じて手燭の代用とした光景が描かれたりした。

 ところが、高値は天井知らずといわれた株価も、景気の落ちこみの波をかぶると、こんどは谷底に転げ落ちるように下落の一途をたどった。成金者の鈴久も、相場が一変して暴落に転ずれば、こんどは一朝にして、もとの素寒貧に戻った。

 駒の歩は、敵陣の三段目以内に入って成れば、強力な「成金」となるが、ひとたび敵に奪われると、ただの歩に戻ってしまう。そのはかない運命を皮肉って、にわか分限者を「成金」と呼ぶようになった。

 以前、伊豆地方を旅行したおりのことである。旅館でもらった宣伝文に、この地方では、サヤ豌豆のことを「成り金豆」と呼ぶと書いてあった。明治中期より改良を加え、新春の食膳に供すれば成金となる、という説明が加えてあったことを思い出した。

 たしかに、「成金」の運命は、成金者のはかない運命を投影するかに見える。ただ、将棋の駒の歩は、流行歌の歌詞のように、「吹けば飛ぶ」ほどに軽いものではない。

 プロは、歩を大切にする。「歩」は成金に変貌する。歩の威力を知ることは、すでに初心者の域を脱した人といえるだろう。

20 待ち駒-2009.06.01-

 将棋の終盤戦で、相手玉の脱出を封ずるために、脱出路に駒を打って「利かせ」ておくことを「待ち駒」という。そのテクニックを「汚い」とか、「ずるい」というのは、弱者の悲しい叫びであって、ほんとうは正しい批判ではない。「待ち駒」を許すほうが悪いわけである。

 日本人は「ものの哀れ」を知る国民であり、潔いことを好む性癖がある。ときには美徳と讃えられるが、そうした性格を植えつけたのは、たぶん、徳川幕府が「官制思想」として儒教を強制したからであろう。武士道というものを、せまい倫理で縛りつけたのも儒教のなせる業であった。

 もともとは日本人は、おおらかな民族であったと私は見ている。戦国時代の武将たちの振舞いを見ても、後代の武士道が演じたような暗い「しめつけ」はない。歴史が、それを証明するだろうし、室町時代に誕生した日本将棋のルールのなかにも、おおらかな日本人の民族性を感じとることができる。

 持ち駒を再使用する日本将棋のルールは、世界に冠たる文化ということができるではないか。それが、いつの間にか、「待ち駒」を嫌う思想を作り、日本人を「潔い人間」に仕立て上げてしまった。そう申しても過言ではないと思う。

 江戸中期に、渋川時英という人がいた。渋川流の柔道家で、寛政九年に没した。随筆集の『薫風雑和』には宝暦九年(一七五九)の序が見える。柔道家であるから、武張ったことが好きであった。随筆集のなかで、「将棋の待ち駒というのは、決して汚くはない」と大胆に書く。儒教思想に洗脳された武士の多い時代に、そうした発言をするのは、勇気の要ることであったろう。

 論は理に適っている。あまりカッコイイことばかりいって、たとえば寝首をかかれるようなことになっては、「それでも武士の面目は立つのか」と鋭く衝く。もっともなことだと思う。

 現在は、「待ち駒」のことを「しばり」という。「しばり」といえば、現代人は抵抗を感じないが、江戸時代では、だれしも忌み嫌う言葉であった。

 戦国時代より、日本語の「しばり」は、刑罰の「縛り首」を意味していた。そうした不吉な言葉を避けて、将棋用語では「待ち駒」を採用したものであろうか。

 もともと将棋用語の「待ち駒」に託される「待つ」は、消極的な策ではなくて、果敢に「先手」をとる高級なテクニックである。強ければ強い人ほど、この「待ち駒」-「しばり」の技を活用する。

 江戸時代の川柳に、

 椎の木のかげに待駒はつて置き

 句は、『曽我物語』巻第一の「河津三郎討たれし事」を下敷きとする。工藤祐経の命を受けた郎党、大見の小藤太と八幡の三郎の二人が、赤沢山の麓の八幡山の境にある「切所」を尋ねて、椎の木三本を小楯にとって河津三郎を討取った。その故事を詠みこんだものである。

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