7 ベールを脱いだ宗桂-2008.05.01-

 将棋の歴史を調べ始めたのは、昭和二十七年ごろである。あるとき、囲碁の歴史はあるが、将棋の歴史はない、と井伏鱒二先生から承り、「それでは・・・」と研究に着手した。

 手当たりしだいに江戸期の文献を漁った。わずかに、史料としてまとまったものは、『古事類苑』の『遊戯部』の記載だけである。それとて、史料らしきものを羅列したにすぎず、史料という点では玉石混淆のたぐいである。腰を据えて、一から始めねばならなかった。

 現行将棋の誕生も重大課題である。そのテーマに取組みつつ、将棋の始祖である大橋宗桂の研究に全力を注入した。

 それまで、明治の好事家たちが断片的に書き残したものには、宗桂は将棋を能くし、「医を以て織田信長に仕えた」としてあった。それが通説となって、昭和の代までも伝わっている。宗桂が「医家」であるかどうか、そこから私の研究は出発した。

 三年ばかり、幻の宗桂像を追いつづけたが、はかばかしい収穫はなかった。「医家」であることに疑問は感じていても、それを否定する「史料」は発見できなかった。

 ある日、神田の古本屋街を歩いていて、『早引人物故事』をもとめ、ぺらぺら頁を繰るうちに、重大な「秘密」に気がついた。

 −−−大橋宗桂 吉田宗恂といへる医師の男にて、天性将棋に妙手ありしとぞ・・・。

 それは『武江年表』からの引用であることを明示してあった。さっそく、『武江年表』を調べ直した。嘉永三年(一八五〇)刊の同書の慶長十五年の条に、

 −−−官医吉田宗恂卒、五十三歳、其子宗達又良医の聞えあり、大橋宗桂も宗恂が男なり、将棋図式一巻を著す・・・。

 誤伝の元凶は、この『武江年表』であった。そこから私の謎解きは始った。明治以降の人名辞典などは、この本から引用して宗桂を「医家」と書き、それが流布したものであることも判ってきた。

 誤伝のなかから、始祖の宗桂像がくっきり浮び上ってきたときは、大袈裟にいえば私はひどく興奮していた。

 その後、良質の史料とされる『当代記』の慶長十二年六月の条に、「此時、上手、名ハ宗桂ト云者ナリ、是京都町人ナリ・・・此宗桂ハ、信長時代ヨリノ指手ナリ、今年五十三歳ナリ」とあるのを知って、どうやら、真実の宗桂象を捉えたような気がした。

 宗桂は弘治元年(一五五五)京都に生れ、寛永十一年(一六三四)三月九日、八十歳の天寿を完うした。京都・深草の霊光寺に駒型の墓碑が建てられている。

 慶長十七年、宗桂は家康から禄を賜い、ここに始祖として棋界の基礎造に奔走した。没年の翌年、大橋分家と伊藤家が創設されて、将棋三家の制も定まることとなる。

 宗桂の生れる前の天文年中は、まだ「酔象」を加えた古式の小将棋が行われていた。天文・弘治・永禄と世は移り、永禄期に「朝倉駒」が存在したことも判った。つぎの元亀・天正と戦乱の世はつづき、天正十五年(一五八七)には『家忠日記』二月下旬の条に、いまの将棋の最古の駒組図が書きこまれている。

 始祖は、奇しくも将棋の揺籃期に生を享け、将棋史上を一人歩きし始めたわけであった。

8 名人・上手という-2008.06.01-

 将棋名人戦は、昭和十年に発足した。

 それ以前は、「一世一代」の制が堅く守られていた。江戸時代は、大橋・同分家・伊藤家から名人が出る仕来りである。明治維新で将棋家は徳川幕府の庇護をはなれて野に下り、明治から大正までは、時の第一人者が名人の印綬を帯びることとなっていた。

 「一世一代」の制は、不文律として棋界の憲法の役を果していた。だから、大正十四年に関西の坂田三吉が名人を名乗り出たときは、中央棋界から絶縁状を突きつけられ、坂田は大阪の地で孤塁を守らねばならなかった。

 いまでも、坂田が名人を唱えたことは「僭称」として厳しく糾弾されている。もっとも、日本将棋連盟は昭和三十年十一月一日付けで、「名人位」と「王将位」を追贈した。にもかかわらず、いま以て坂田を名人と呼ばないのは、過去の「僭称」が、しこりとして残っているからではなかろうか。

 将棋の始祖である大橋宗桂は、将棋史上では「一世名人」と呼ばれている。その名人は追贈であっても、始祖であるのだから、「一世名人」の呼称は当然のことであろう。

 宗桂が活きたころは、「名人」という呼称は棋界にはなかった。『当代記』も、「此時ノ上手」と書いてある。そのころにあっては、「上手」は即ち第一人者であり、のちにいう「名人」であった。

 将棋の世界で「名人」なる呼称が生れたのは、いつの頃からであろうか。

 草創期では、「将棋指衆」とか「将棋師」と記され、幕府に「将棋所」の役が設けられてからは、将棋所が名人の別称となっている。

 現存する最古の免状は、四世名人・五代大橋宗桂が元禄十年(一六九七)に授与したものであるが、それには「大橋宗桂」の署名だけがある。名人の呼称を用いるようになったのは、はっきりした史料は見当たらぬが、五世名人の伊藤宗印のころからではなかろうか。

 名人という呼称は、もとは将棋界にはなかった。将棋で、その呼称を知るのは、『将棋自在』(天保九年刊)の序に、「その技に巧で六十州に冠たる者、名人となし、また呼びて上手となす」という文章である。

 名人の呼称は、たとえば、十一世紀に成ったとされる仏教的説話集『沙石集』に、「名人なりけるとて許さずして」と用いるごとく、「有名な人」「名の通った人」ということであったらしい。

 また、安永五年(一七七六)刊の『済生堂五部雑録』で歌舞伎役者の芸に触れて、

 −−−名人とは何にても其道に達し名を天下に著をいふ、上手とは其名は著れねども其道に達したるをいふ・・・。

 とあるように、「名人」が上位で「上手」はそれにつぐ名手として区別されている。

 将棋でも、江戸時代に入ると、名人を上位とし、上手を次位として用いるようになってきた。文化七年(一八一〇)刊の『将棋寄戦』には、段位駒落図を示す。名人は九段、半名人は八段、上手は七段となっている。

いまは、上位者の称として「上手」の呼称を残すばかりである。

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