9 端の歩をつくひまは-2008.07.01-

 戦国時代の信長・秀吉・家康の三武将の性格を語るのに、「ほととぎす・・・」の句を示すことが一つの説となっている。

 将棋のほうからも、武将の性格を占うことはできないものであろうか。

 信長は、荒々しい戦国武将であると同時に、当時の「新しがり屋」であった。バテレンが献上した黒ん坊に「弥助」と命名して甲州征伐から本能寺の変にまでも供をさせたりした。

 十一代大橋宗桂という人は、慶応三年二月に、「旧記のままに」として大橋家の先祖を語った。たぶん、いい伝えを文書にしたものであろう。

 —元祖名人大橋宗桂、織田信長公へ相勤め罷りあり、将棋に秀で桂馬の妙手にこれ有り、信長公宗桂と名づけられ、関ヶ原御陣(註・この記述は誤り)並びに御上洛の節に御供仕り・・・。

 桂馬を巧みに使うので、信長は旧名を改めて、宗桂の名を与えた。これは『羅山文集』に出ているので信用できる話である。

 関ヶ原陣云々は、すでに信長は本能寺の変で滅びているので、明らかに誤記である。ただし、好者の信長のことだから、十徳を着した僧形の将棋師を戦場にまで供させたことは充分に想像ができることである。

 黒川道祐の『遠碧軒記』には、信長は、「その時宗桂に八十石」を与えたと書くが、残念ながら、それを裏づける史料は見当らない。

 すこし時代は下るが、山口幸充は、その著『嘉良喜随筆』で『遠碧軒記』からの抜粋として前記のことを紹介し、さらに、

 —信長公生害ノ夜モ、夜半迄碁・将棋ヲ御覧アリ。暁ニ成リテ、桂川ヨリ鮎ヲ持テ台所ヘ来ル者ノ申ハ、丹波ノ方ヨリ大勢甲冑ニテ上ル・・・夜明ナバ知レントテ申上ズ。此時申上タラバ御用意有ベキニ、運ノ尽ル所也ト・・・。

 将棋好きな信長のことだから、あるいは、本能寺で近習たちに対局させて、観戦していたのであろうか。

 その信長の性格を評して、「鳴かぬなら殺してしまへほととぎす」なる句が伝えられている。

 緻密な頭脳の持主であるのに、気性荒く、短期者であったという。

 いつであったか、私は専門棋士に、信長はどんな将棋を指しただろうか、ときいたことがある。その人は、「我田幸三九段みたいな将棋ではないでしょうか・・・」と語っていた。

 天下取りが、信長には畢生の大事業であった。将棋は、「陣法を象ったもの」と述べたように、信長は部下の士気を鼓舞する手段として推賞した。娯楽として将棋を愉しむ心のゆとりはなかったであろう。

 天正十年(一五八二)六月二日早暁、無防備にひとしい本能寺を明智光秀に襲われて、信長は自刃した。

 江戸の庶民は、その信長の呆気ない死にざまを諷刺して、「本能寺端の歩をつくひまはなし」と詠んでいる。

 明和五年(一七六八)刊、『誹風柳多留』三編に載せる投句である。歴史を題材とした古川柳では、最もすぐれた句の一つだと思う。

10 太閤将棋-2008.08.01-

  秀吉は、今も昔も庶民の人気者である。草履取りから身を興して天下を取ったその事実は、壮大な「夢」を庶民に抱かせるからであろう。ことに、居城のあった上方地方では、「太閤はん」と追慕され、いつまでも人気は衰えないようである。

 句の評をかりれば、秀吉は、「鳴かぬなら鳴かしてみせうほととぎす」という性格の持主であった。

 その一生を眺めれば、老獪にして底抜けに無邪気の人であった。老獪さと無邪気さが矛盾しないところに、気宇壮大、愛される秀吉のおおらかな性格があった。

 運もよかった。信長の横死で、天下人たるべき幸運が転がりこんできた。その後の秀吉は、先君信長の路線を踏襲して、早々と天下平定の計画図を描き上げた。晩年の朝鮮出兵は、余計なことであった。それさえなければ、偉大なる武将にして偉大なる行政官という最大の評価を得たことであろう。

 秀吉は、将棋をすら行政に利用した節がある。利用しても、いやらしさが残らないのが、また秀吉の持ち味であった。

 宮中の女官が日々の晴雨や雑事を綴った『御湯殿上日記』の文禄四年(一五九五)五月五日の条に、菊亭、勧修寺、中山の三公家を使として、

 —しやうぎのむま(馬=駒)わうしやう(王将)をあらためて大しやうになされ候・・・・・。

 と申し入れたと書いてある。

 天下を取った秀吉は、常に皇帝を利用することを考えていた。「王将」を「大将」に改めてほしいというのも、「王の字は畏多い」という機嫌取りからではなかったか。

 時の後陽成帝に申し入れ、「ノー」の返事しか得られなかったのに、けろりとしている。三人の公家を使いに出す仰々しさも、そうして権勢を示したことで満足したのであろう。

 天下を取ってから、たしかに秀吉は傍若無人に振舞った。世に、「太閤将棋」という言葉がある。下手側が飛先の歩をはぶくという変則将棋で、これなら一手で飛車が成りこめて大勝する。このハンディは、まずは大駒落にひとしいと現代の専門騎士は判定する。

 囲碁にも、「太閤碁」という打ち方がある。黒が第一手を天元に据え、あとは白の打つ通りを真似るという横着な打ち方である。

 「太閤将棋」や「太閤碁」以上に、秀吉の名を高らしめたのは、実は「人間将棋」の試みであった。駒の代りに、人間を使って将棋を指すという趣向である。

 この「人間将棋」は、いま、大衆駒の産地で知られる山形・天童市に伝わる。毎年、天童市は桜の季節に、きれいどころを集めて、「人間将棋」を披露する。専ら、観光宣伝のための催しである。

 秀吉は負けず嫌いであった。だから、相手がわざと勝ちを譲っても、無邪気に勝利を喜んだ。同じ負けず嫌いでも、養子の関白秀次は自力で勝たないと喜ばなかったという。

 高野山で秀次は二十八歳の短い生涯を閉じた。異志ありと秀吉から「死を賜うという」使者が到着したとき、秀次は将棋を指していた。川角某の『太閤記』はそう記してある。

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