Q21 家康の囲碁哲学とは?-2008.03.01-

徳川家康

 昨年(平成十六年)十一月十五日(いい囲碁の日)日本棋院に囲碁殿堂資料館が創設されました。

 栄えある第一回の殿堂入りをはたした四人のメンバーの中に、徳川幕府の創設者であり初代将軍の徳川家康(一五四二〜一六一六)が選ばれております。他の三人は初代本因坊算砂・四世本因坊道策・本因坊跡目秀策とすべて江戸の著名な棋士でした。

 日本の”準国技”と称すべき野球の殿堂は何年も前に設立されていますが、選手ばかりでなく関係者が多く選ばれています。囲碁界も見ならって選手(棋士)以外からも選んでおります。

 天下人のなかでも、とくに家康は囲碁への思い入れが強く、それだけに対局にまつわる面白いエピソードを数多く残しております。そればかりではなく、家康は囲碁・将棋などの棋士や芸術家を保護し、相談相手にしたり重い役職に登用していました。算砂は南光坊天海と並んで家康の”軍師”を仰せつかったという話もあるくらいです。

 そのうえ、家元・碁所・御城碁などの碁盤を築き上げた恩人であります。「家康がいなければ、(日本の囲碁は)すべてが始まらなかった」という棋士がおりましたが、まったくそのとおりであります。

 江戸からはじまった日本の囲碁の優位性を世界に知らしめるという、大事業を成し遂げたのが家康であり、また、その遺志を継いだ代々の将軍が江戸時代の大半の期間(二三〇年間)、囲碁・将棋を保護、奨励してきたのが現状です。

 算砂・道策・秀策をはじめとする多くの棋士の存在についても、家康が囲碁界に対してもたらした功績があったればこそと言えるでしょう。

 家康が「囲碁は日本の国技」と言ったかどうかは定かではありませんが、中年にして囲碁を覚え、その魅力や効用を生涯にわたって享受し、人にも勧め碁友・碁敵との交流から多くの人脈を構築し、あまつさえ、天下を取った幸せな囲碁人でした。

Q22 戦国武将の囲碁戦略とは?-2008.04.01-

頼朝の御前碁会のいごこざを描いた浮世絵(歌川国芳画)

 中国においては「囲碁は兵法なり」とみなされた時期がありましたが、日本においても「囲碁は戦略・戦術の具なり」と信じられた風潮がありました。

 「義家が日本の囲碁史上に名前を伝えられる最初の武人」(渡部義通)と書かれた源義家(一〇三九−一一九九)は武勇に優れ、そして、囲碁をたしなんだ武将でした。

 鎌倉幕府を開いた源頼朝(一一四七−一一九九)も囲碁にちなんだエピソードがあり、弟の義経の家臣である佐藤忠信が碁盤を武器がわりにした武勇伝や弁慶が囲碁の助言した逸話も。信州上田城主の真田昌幸の川中島や関ヶ原合戦での逸話は有名です。

Q23 昔はうわ手が黒を持った?-2008.05.01-

第一手白の棋譜が二十数局のこっている

 古代中国では、黒(玄)を天の色ないし奥深い色と考えられており、「幽玄」という言葉はここから出ています。黒衣(黒い着物)は貴人が着用するもの。「白衣」は無位無冠の平民の服で、「白人・白丁」とは普通人を意味します。したがって、中国ではした手が白を持ち、うわ手が黒を持つしきたりが長い間つづきました。つい百年前ぐらい前から、日本式に白と黒が逆転したと言われます。日本も四百年前ほどには、「第一手白」の碁が二十数局残されています。図は算砂に利玄が白番第一手の碁。

Q24 「本因坊」の語源は?-2008.06.01-

世襲制最後の本因坊秀哉

 現代の「本因坊戦」は、もっとも古く伝統のあるタイトル戦の名称です。

 この語源ですが、囲碁界中興の祖と言われる算砂の出自、寂光寺で修業時代をおくった塔頭の一つ「本因坊」から出ています。ちなみに、他の塔頭とともに現在の寂光寺には存在しません。

 徳川家康の時代に囲碁の四家元が設けられましたが、本因坊家は代々にわたり囲碁界のリーダーシップを発揮し、また、十名の名人のうち七名、碁所八名のうち五名が許されております。算砂は江戸時代は〈ほんにんぼうさんしゃ〉と呼ばれ、日海は〈にちかい〉と呼ばれておりました。

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