Q25 「名人」の語源は?-2008.07.01-

歴代名人

 一般的な「名人」の語源は、どの辞書でもはっきりしません。囲碁界では、織田信長が十九歳の日海を引見したさい、「お前は名人の技量がある」といった言葉が語源と考えられております。 

 算砂から大正初年まで、十人の名人が官命・推薦・争碁などによって決められています。道策のころからは名人=九段と定められました。 

 名人と碁所とは別個の基準で定められます。

Q26 「碁所」の由来とは?-2008.08.01-

  「碁所」は〈ごどころ〉と読みます。その職責たるや囲碁界最高の名誉と権威を有し、将軍の指南を初めとして、四家元をたばねるほか、すべての棋士の昇入段を定め、免状の発行権を独占し、御城碁の対局組み合わせ、天覧碁や海外棋士との対局など、もろもろの行事を采配しました。

 碁所となるためには、囲碁界きっての実力を備えていなければならず、名人(九段)の位を有することが条件となります。

 なお、囲碁界の頂点に君臨するためには、最終的には幕府(寺社奉公)の認可を得る必要がありますが、異論を唱える棋士または家元があれば、実力により優劣を決する争碁によって決着をつける方法がとられました。

 地位や名誉を守るために、各家元間における技量の水準が飛躍的にアップしたことは明らかだったということもできるでしょう。

 なお、盤外における権謀術数の駆け引きが少なくなかったのも事実でした。例えば、天保時代の丈和と林元美との確執はあまりにも有名です。

Q27 「御城碁」の制度とは?-2008.09.01-

江戸城白書院レプリカ

  江戸時代において、毎年秋に各家元や原則として上手(七段)以上の棋士が実力と名誉を懸けて将軍の面前で対局し、心血をそそいだ棋譜を創り上げるための幕府の年中行事の一つであります。

 およそ二三〇年間にわたり五百数十局にのぼる対局が行われました。江戸時代を通して、日本の棋力水準が高められた大きな要因となっております。

 国の機関によって、時の最高権力者の面前で盤上ゲームを二三〇年間も披露させるなどという行事は、世界歴史のうえで日本だけでしょう。

Q28 「碁聖」の語源は?-2008.10.01- -2008.11.01-

本因坊道策

  「碁聖」の語源は今から千余年の昔にさかのぼります。『花鳥余情』(一條兼良編)という書物に「(橘良利=寛蓮は)碁の上手なるにより、碁聖といえり。延喜十三年(九一三)五月三日、碁聖勅を奉じて、碁式を作りて之を(醍醐帝に)献ず」とあります。

 他の者より棋力が上回っていたため「碁聖」と呼ばれた寛蓮のエピソードは、いくつも残っていますが割愛いたします。醍醐帝は師の寛連に二子の手合いといいますから。歴代天皇のなかでも最高の実力者でしょう。

 次の碁聖(道策)が登場するまでには、およそ三六〇年の年月を要しています。

本因坊跡目桑原秀策

 近世以降における「碁聖」は、四世本因坊道策と本因坊跡目秀策の二人であることは、だれでもが認めるところでしょう。

 道策は約三〇〇年前に亡くなりましたが、「実力十三段」と恐れられ、天下に敵なしの実力者でしたが、さらに、手割り理論と近代碁法の確立・段位制の整備・多くの俊秀を育成・元禄時代の碁界の隆盛をもたらした、など多くの事績をのこしました。遺譜は一五三局あります(『道策全集』より)。

 道策より一八四年後に生まれた秀策は「後聖」とたたえられました。十一歳で初段に入品、十八歳のおり井上家の総帥・幻庵因碩に先で対し三目を余した碁は「耳赤の一手局」として著名。何よりも御城碁で19戦19連勝は前人未到の記録です。当時流行のコレラに罹病し、三十四歳の若さで世を去りました。

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