Q33 江戸の碁会所風景とは?-2009.04.01-

図1・図2

 いにしえの”碁会所”は、宮廷の囲碁サロンと化した紫宸殿といえば叱られそうですが、古来より、宮廷や武将の館、豪商の屋敷そして寺社の書院などで愛好者のための碁会が多く行われました。

 一般庶民にも囲碁が広間まると、次第に一定の場所に集中します。たとえば、床屋・風呂屋・遊郭などに碁盤・将棋盤を置いてサービスするようになりましたが、やがてファンと席亭の利害が一致して碁会所(将棋会所も兼業?)が誕生しました。

 右の図は、江戸中期ごろの囲碁・将棋会所風景。いずれも、当時の雰囲気がよく出ています。

 図2はいさかいの場面のようです。

Q34 江戸の碁盤店の様子は?-2009.05.01-

図1・図2

 江戸前期の日記『舜旧記』に「盤屋」とか「碁盤屋」の名称が見られます。

 図1 十八世紀前半の碁盤屋の作業所風景。右方はヘラで目盛りをしている職人、左は片肌ぬいでホゾ(脚をはめ込む穴)を彫っているところ。出来上がった双六盤と将棋盤が積まれています(『今様職人尽百人一首』より)。

 図2 百年後のイラストです。「盤目造」とありますから、目盛りの専門職人でしょう。盤端から盤端まで一気に線を引かず、四分割して漆を盛る珍しい技法(『今様職人尽歌合』より)。

 現代では刀で漆を盛る技法も見られます。

Q35 囲碁免状の歴史は?-2009.06.01-

免状

 囲碁の免状には、三百余年の歴史があります。

 本因坊算砂と安井算知が発行した免状の「写し」が長野県塩尻市の旧家に保存されており、やはり、本因坊道作が天和二年(一六八二)に琉球国の濱比嘉親雲上に与えた免状の「写し」が島根県邇摩郡の道作の生家に保存されております。発行当時の書体と体裁が同じであったと想像されます。

 次いで古い免状としては道作の弟子、道知が長谷川知仙に与えた上手(七段)免状でしょう。これ以降は、時代によりそれぞれ文体は変化してきますが、二つに折った横長の大高檀紙を使用することは変わりません。

 純白で重厚な檀紙の起源は奈良時代だそうです。「大高」とは大判の紙を漉くことから名付けられたといいます。現代のように、皺が大きい特長は、道作らが活躍した元禄時代からです。

 明治6年に、林秀栄が女流の林佐野へあてた免状の文面は平仮名交じりでしたが、それ以外はほとんどがいかめしい漢文調であります。

 現在と同じ文体に統一されるようになったのは、大正十三年七月に日本棋院が創立されて以来からのことでした。

 創立同時の理事であり、著名な政治評論家の古島一雄が従来の免状を参考にして決めたといいます。

 ちなみに、関西棋院も日本棋院と同じ文体だそうです。方円社の免状は、段位ではなく「級位」を採用しましたが、やがて段位に戻しております。

Q36 「コミ碁」はいつから?-2009.07.01-

 昨今の互先対局では、プロもアマも大ゴミ(七目半または六目半)を採用していますが、史上初のコミ碁は天保八年(一八三七)十二月土屋秀和・竹川弥三郎(先番五目コミ)対太田雄蔵・服部正徹局(打ち掛け)の連碁と言われております。

 正式の棋戦でコミが採用されたのは、初のタイトル戦として昭和十四年に誕生した本因坊戦(正式な名称は「全日本専門棋士選手権大会」。コミは四目)からでした。この当時、加藤信は「コミ碁は碁にあらず」といって忌避したと報じられました。

 一九四八年(昭和二三)に創設された王座戦(日本経済新聞社主催)から「コミ四目半」が採用されましたが、昭和五十年を境として五目半に変更され、さらに平成十六年(二〇〇四)から六目半に改定されています。

 大正十三年から開始された大手合では「コミ碁」は採用されておらず、平成十五年度に中止されるまでコミなし碁(昇段は点数制で決めるシステム)は、八十年近くも連綿としてつづいてきた歴史が消えてしまいました。

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