囲碁の豆知識Q37〜Q40 日本棋院 囲碁雑学手帳 転用
Q37 「新布石」の創始とは?-2009.08.01-
「新布石」という言葉を聞いたことがありますか?今をさかのぼること七〇年余の昭和八年(一九三三)夏、実力、人気ともにトップを走る木谷実、呉清源両五段が、信州(長野)地獄谷温泉「後楽館」で新しい定石や布石を研究したことにはじまりました(後楽館の娘さんが木谷五段の奥さんでした)。
木谷、呉両五段は中央を重視、碁盤全体を使った新しい布石法を『囲碁革命 新布石法』(平凡社刊)として発表、大手合や棋戦で試み実績を示しました。プロ・アマを問わず大きな反響を呼び、現代から見ても目新しい「超布石」なども現れました。
Q38 「名人引退碁」とは?-2009.09.01-
「不世出の名人」とか「小さな巨人」と称された本因坊秀哉(本名・田村保寿)は明治七年、東京で生まれ、十歳で方円社に入社。初段入品は九年のちのことです。
二十一世本因坊を継いだのは二四歳のとき。名を秀哉と改め八段に昇進。史上八人目の名人に就いたのは大正三年。大正十三年の日本棋院創設に尽力しました。昭和十二年にいたり秀哉は時代の流れを読みとり、また、自身の健康状態も考え「名人引退」を決意しました。
呉清源とともに実力、人気を二分していた木谷実七段と「名人引退碁」を打つことになりました。
木谷七段は引退碁挑戦者決定リーグ戦で優勝。盛大な打ち初め式が東京芝の「紅葉館」で行われました(東京日々、大阪毎日新聞共催)。
試合は半年におよび、合計十五回も打ち継ぐ熱戦のすえ、名人は五目負けを喫しました。この碁は両者とも死力をつくす名局で、観戦記を担当した作家(のちにノーベル賞を受賞)・川端康成の名作「名人」のモデルとなったことでも著名です。本因坊の名跡は日本棋院に移り、棋譜は毎日新聞に掲載。
Q39 呉清源の来日と活躍は?-2009.10.01-
中国国内ばかりでなく、日本においても天才少年として知られた呉清源少年(十四歳)が来日、はじめて日本の土を踏んだのは一九二八年(昭和三)の秋、十月二十日の朝。天津の塘沽から長安丸に乗船して門司港に到着しました。
同行したのは母の舒文と長兄の浣氏。創立して間もない日本棋院を挙げての歓迎を受けた呉少年は、何局かの試験に合格して”飛び付き三段”を許されました。晴れて棋士として大手合に出場することになったのです。
昭和五年(一九三〇)の春季大手合は七勝一敗、年間成績は三一勝六敗二持碁を記録します。こののち、木谷実とともに日本棋院のホープとして大活躍しました。かずかずの名局をのこしましたが、とりわけ新布石法の創始にかかわり碁界に新風を吹き込みましたし、さらには、「打込十番碁」では天馬空を往くごとき快進撃をみせました。時代の強豪をすべて打ち込むという、圧倒的な強さを見せ「昭和の碁聖」と恐れられました。
現在、九十歳を超え、なおも「二十一世紀の碁」を極めるべく研鑽中といいます。
Q40 海外普及の黎明について?-2009.11.01-
古代日本の囲碁についての情報は、奈良・白鳳時代から散見されるようになりましたが、おそらく、中国ないし朝鮮半島から伝来して、あまり遠くない時期だったと思われます。
囲碁がアジアから欧米へ波及した端緒とは、どんなきっかけだったのでしょうか。
宮内庁御物(三の丸尚蔵館蔵)の中に一双の南蛮屏風があり、この絵の中にいわゆる南蛮人同士が烏鷺を闘わす場面が描かれています。この屏風は徳川家康が宮中に献上した品だそうですが、少なくとも四百年前、十七世紀初頭の逸品と思われます。このほかにも、日本人と南蛮人の対局図なども数点存在しております。
ともかく日本と欧米の交流の仲立ちとして囲碁が登場する屏風だったとは、熱烈なファンであった家康は味なことをしてくれたものですね。
さて、欧米人による囲碁の紹介は、明治政府の招聘で来日した雇われ外国人の一人、O・コルセルト(ドイツ)が一八八一年(明治十四)、ドイツの技術雑誌で発表した「碁の理論と実践」が嚆矢でしょう。コルセルトは秀栄の弟子でしたが、初段の免状をもらっています。
次いで、一八九〇年(明治二三)にはイギリスのB・H・チェンバレンが『日本事物志』で日本の囲碁を紹介しています。九年後、ユーゴスラビアのプーラで欧州初の囲碁クラブが設立されましたが、主なメンバーはオーストラリア海軍軍人でした。
欧米初の以後大会は一九三八年(昭和一三)ベルリンで開催された「第一回ドイツ囲碁選手権戦」。優勝者は日本への留学経験のあるF・デュバル博士でした。